あゆの世界の9月4日。
今日は土曜日なので、授業は午前中しかない。
授業が終わった午後、俺は いつものように学校から病院へ直行し、あゆのリハビリに付き合った。
「うんしょ、うんしょ……」
いつものように、ただ ひたすらに歩行運動器のローラーをこぐ、あゆの姿。
それを傍らで見守る俺の心を、“昨日”の秋子さんの告白が何度もよぎる――。
『私には、もう あゆちゃんの訴えを拒むことは出来ませんでした。そんなことをすれば、あゆちゃんを余計に悲しませるだけだと、分かってしまいましたから』
「……なあ、あゆ」
俺の口から、ついそんな言葉が出た。
「何、祐一君?」
ローラーを止めて、返事を返す あゆ。
「……いや、何でもない」
自分が発した台詞に、俺自身が思わず苦笑した。
「名雪の世界の あゆ」のことを、「あゆの世界の あゆ」に聞いてもしょうがない。
「…………? 変な祐一君」
「俺が変なのは、7年前からだ」
「うぐぅ、自分で言う事じゃないよ」
*
リハビリに付き合ったあとの、病院からの帰り道。
俺はふと、この街の商店街に立ち寄った。
何か目的があったというわけではない。ただ何となく、そこへ行ってみたい気分になっただけだ。
今の時期は、どこの街にもありそうな風景だが、冬ともなれば、降り積もる雪で化粧され、この街ならでは雰囲気を醸し出す、この商店街。
そして、ここは不思議と、どの世界の“俺”にも縁のある場所だ。
あゆが元気一杯に走り抜けた、石畳の道。
名雪に何度もイチゴサンデーをおごった、喫茶店『百花屋』。
舞への差し入れに、牛丼弁当や みたらし団子などを買ったコンビニ。
栞がモグラ相手に悪戦苦闘した、ゲームセンター。
そして……。
俺は、そのゲームセンターの脇にあるプリント機に、目を留めた。
あの冬の時期、真琴がじっと遠くから眺めて突っ立っていた、あのプリント機。
「真琴の世界」であれば、そこは真琴が俺や水瀬家に「家族」として迎えられたことを象徴する場所だ。
しかし、他の世界――例えば、この「あゆの世界」では、プリント機で撮られた写真に写っているのは、いつも真琴一人。
この人間世界に自分の居場所がない、ただ自らの孤独を確認するだけの場所でしかない。
そのことを思い巡らしていた俺は、なぜか、しかし自然と――ものみの丘へと足を進めていた。
我ながら無駄な事をやっていると思う。今更あの丘――妖狐たちの住む場所へ行ったところで、何かが変わるわけでもないのに。
そう自覚しつつも、俺の体は、丘へと向かっていた。
*
商店街を抜け、坂道になった住宅街を抜ける。
やがて閑散とした山沿いの道路から、木々の茂る脇道へと折れ、うっそうとした山に踏み入る。
そして俺は、林道のような小道をしばらく登って行く。
このまま進めば、やがて視界が開けてくる。その開けた先が、ものみの丘だ。
……その、はずだった。
もう随分と歩いたはずなのに、視界がちっとも開けてこない。
それどころか、気が付くと、小道は下りに入っていた。
木々の合間から、かすかに隣町の様子が見える。
どうやら、いつの間にか、丘を通り抜けてしまったらしい。
道を間違えたのだろうか?
まさか。確かに「あゆの世界」に住む俺自身は初めて歩く道だが、「真琴の世界の俺」にとっては通い慣れた道である。そして、その記憶通りに、この俺は歩を進めたはずだ。
何かがおかしい――。
そう思った俺は反転し、歩いて来た道を一旦そのまま引き返した。
*
やがて、元の商店街まで無事にたどり着いた。やはり、道は間違っていない。
そして俺は、あの丘へ体を向き直し、改めて歩き始めた。
その時だった。
「無駄よ」
そう言って、俺を呼び止める声が、背後から聞こえた。
立ち止まって振り返ると、見知らぬ女の子が一人、腕組みをしたまま道の真ん中に立っているのが見えた。
服装は、どこかの学校の制服とおぼしき紺のブレザー。
少し茶色がかった、ツインテールの髪。
背丈は栞と名雪の間くらい。一見すると高校生のようだが、どこか大人びても見える。
そして――明らかに強い意志を込めて俺をにらみ付ける、鋭い眼差し。
「あなたも知ってる通り、ものみの丘は妖狐たちの聖地よ。だから、無関係の人が誤って入って来ることのないよう、結界が張られているわ」
普通なら「なぜ、あんたがそんなことを知っている?」と疑問を感じるところだろう。しかし、実際には聞くまでもなかった。
こうして見合ってる間も、彼女は、真琴のそれに似た独特のオーラを、全く隠していない。
恐らく妖狐と関わった者にしか分からないだろうが、そのオーラの存在が、彼女の正体を何よりも明らかにしてくれている。
あの時――もちろん「真琴の世界」での事だが――、天野が真琴の正体を一目で見抜いた訳を、今の俺は実感していた。
「随分と事情に詳しいじゃないか。
でも、いいのか? こんな通行人だらけの場所で、そこまで喋って」
「当然、結界は張ってるわ。私達の姿や言葉に対し、他の人たちが何も感じないようにね」
そう言って、彼女はようやく組んでいた腕を解いた。
「で、そういうあなたも、私が何者か、聞かないのね」
「見え見えだからな。でも、一応確認する。
あんたは、俺が何者で、今の俺がどういう特殊な状況にあるか、知ってるんだな?」
「特殊な状況って、“五つの世界”のことかしら?」
予想通りとはいえ、なんとまあ、見事にピンポイントで突いてくる奴だ。
「そこまで知ってるなら、話は早い。
確かに、この世界の俺は、真琴と結ばれなかった。そういう意味では、俺は妖狐――つまり、あんた達とは“無関係”と言われても仕方がない。
でもな、その“無関係”の俺だって8年前、その丘で1匹の小狐を拾った。矛盾してないか?」
8年前のあの日。当時の俺が、なぜあの丘までやって来たのかは、覚えていない。
しかし、あの丘で1匹の小狐――のちに真琴となる子供の妖狐を助け、それから半年後、その小狐を同じ丘で放した。それは紛れもない事実だ。
「その時点では、あなたが あの子と結ばれる可能性があったからよ。正確には、今年の1月――あの冬の時点まではね。この意味、分かるかしら?」
彼女は問いかける。つまり、それは俺が真琴を選ばずに……。
「あゆを選んだから……か?」
「そういうこと。あなたは結局、7年前に出会った、あの たい焼き好きの女の子の方を選んだ。その時点で、あなたと あの子との関係――ひいては あなたと妖狐との関係も絶たれたのよ。少なくとも、“この世界”ではね」
それは分かる。しかし、まだ疑問が残る。
「だったら、天野はどうなるんだ? あいつ、こないだも真琴と丘にピクニックに行ったはずだが」
俺が真琴を選ばなかったことで関係が絶たれたのなら、天野だって状況は同じはずだ。
「それは、あなたの言う“真琴の世界”での話でしょ?
確かに、彼女は一度は再会を諦めてしまって、絆は切れてしまったから、その時に丘への道は一旦は封じられたわ。
けど、あなた達に出会ったことで彼女も変わり、絆が戻ったのよ。だから、今は彼女も丘に行ける。
このまま待ち続けることが出来れば、いずれは彼女も再会を果たせるでしょうね」
「すると、“こっち”では……」
「今のあなたと同じよ。絆が切れたままだから。納得?」
「納得……するしかないようだな」
俺はうつむき、そう呟いた。
しかし この時、俺の心の奥深くから、もう一つの疑問が湧き上がった。
そもそも、彼女はなぜ俺の前に現れ、そんな話をするのか。
俺を止めることだけが目的なら、丘の結界のことだけを話して、そのまま立ち去ればいいはずだ。
それに――いくら彼女が妖狐でも、俺や真琴はともかく、全く関係のない あゆのことまで知っているのは不自然に過ぎる。
「あんた……一体何者な――!」
そう言いかけて目を上げると、既に彼女は俺の前から姿を消していた。
始めから、そこに何もいなかったかのように。
そして、俺に降って湧いた疑問を見透かしたかのように。
呆然と立ち尽くす俺の横を、何事もなかったかのように、通行人が一人、また一人とすれ違って行った。
長らくお待たせ致しました!
本当はそのまま「お蔵入り」のつもりでしたが、ファンのご要望にお応えして、『Kanon五重奏』、実に2年11カ月ぶりの連載再開です。
ところで、前回の予告では第12話は「栞の話」のはずでしたが、これは次回以降に繰り延べします。
実は、連載再開に当たってストーリーを再構築したところ、元々の想定よりかなり短くなったのはいいのですが、オリキャラの“彼女”を早く登場させないと展開上まずい事態になり、こういうことになりました。
どうか1秒で了承してください。
その“彼女”ですが、モデルは『Sister Princess』の咲耶そのまんまです(笑)。
ですから、「某妹ゲーの長女そっくりの女の子」と一言で言えれば楽だったのですが、この話の時点(2000年9月)ではシスプリは『電撃G'sマガジン』の誌上企画だけの存在です(PS版が出る前)。祐一が『電撃――』の愛読者で――というのは話が出来すぎなので、仕方なく ああいう描写になりました。
さて、“彼女”の正体。皆様はお気付きになられましたでしょうか? ちなみに、“天野妖狐”ではありません。
ヒント――名前だけは既に登場済みです。