「『あゆちゃん……?』
私一人しか いなかったはずの真っ白な世界に、あの子はいつの間に現れたのでしょうか。
あゆちゃんは、例のダッフルコートに羽付きリュックという いつもの見慣れた姿で、私のそばに立っていました。
『秋子さん……分かってるの? 向こうに何があるのか』
あゆちゃんは、私が向かっていた光の方へ目をやりながら、私に問いかけます。
『ええ、何となくね』
私も、光の方へ向き直して、そう答えました。
『死んじゃうってことなんだよ』
『分かってます』
『二度と戻って来れないんだよ』
『……そうでしょうね』
『秋子さんが死んだら、名雪さんはどうなるの!?』
『それは……』
「名雪」の名前を出されて一瞬たじろぎましたが、
『――名雪には、祐一さんがいますから』
私はそう はっきりと答えて、光の方へ1歩踏み出しました。
……いえ、踏み出そうとしましたが、
『駄目っ!』
と叫んで、あゆちゃんは私の前に回り込むと、その小さな体全体で私を押しとどめるように、私にしがみ付きました。
私は、出来るだけ温和な表情で、あゆちゃんに言いました。
『あゆちゃん……私がここにいるということは、もう私はこの世の人間ではないということなの。だから、もう元の世界には戻れない。あの光に満ちた向こうへ行くしかないのよ。だから――』
『戻れるよっ!』
あゆちゃんのその返答は、私の思わぬものでした。
『えっ……?』
『戻れるんだよ。……これさえあれば』
そう言うと、あゆちゃんは懐から、小さな人形らしきものを取り出しました。
それは、天使の形をした、手の中に入るほど小さな、可愛いお人形。
でもそれは、土の中にでも埋まっていたのでしょうか。羽の片方はもげて、頭にあるべき輪も取れてしまっており、白い衣は土ですっかり汚れていました。
『あゆちゃん、それは……?』
『これ、7年前に祐一君からもらった、どんな願いでも三つだけ叶えてくれる、天使の人形なんだ』
『祐一さんから……?』
『うん。二つだけ叶えてもらった後、将来また使う時が来るまでって、土に埋めておいてたんだよ。そのことを、こないだ やっと思い出して……丸1日かかって やっと掘り当てたら、すっかりボロボロになってたけど。でも、残しておいた一つ、最後の願いを叶える力は、まだ残ってると思うんだ』
普通なら陳腐なおとぎ話にしか聞こえない事でしたけど、なぜか私は、あゆちゃんの その言葉を信じていました。
だって、そもそも こんな所で私とあゆちゃんが二人で話をしていること自体、おとぎ話の世界でしか考えられない事ですもの。それぐらいの不思議な事が一つや二つ増えたところで、もう私には疑いの気持ちなど浮かびはしませんでした。
『それを、私に……?』
『うん。……せっかく見付けたけど、ボクには もう必要のないものだし、だから、この最後の願い、秋子さんにあげるよ』
…………。
その時、私の心に、疑いの気持ちとは違う、何か引っかかるものを感じました。
――“ボクには、もう必要のないものだし。”
あゆちゃん、本当にそうなの?
『それじゃ聞くけど、なぜ あゆちゃんは、ここにいるの?』
『えっ……?』
予想外の質問だったのでしょう。あゆちゃんは、顔一杯に疑問を浮かべました。
『事情は分からないけど、あゆちゃんが ここにいるってことは、あゆちゃんも今、私と同じ所へ向かっているってことじゃないの?』
『あっ……!』
更に私は、あゆちゃんに畳みかけます。
『やっぱりそうなのね。だったら、なぜ あゆちゃんは、自分が助かるために、その最後の願いを使わないの?』
『……それは』
やはりそれは、決して触れられてはいけない事だっだようです。あゆちゃんは うつむいて、言うべき言葉を失ってしまいました。
『あゆちゃん……?』
『……あはは。祐一君が言ってた通り、やっぱり秋子さんって凄いんだね。やっぱり、秋子さんには隠し事なんて出来なかった』
そう言って顔を上げた あゆちゃんは、笑顔でした。でもそれは、奥底から湧き出る悲しみを覆い隠そうとしても隠し切れず、それでも何とか ごまかそうとして引きつっていた、悲痛な笑顔でした。
『――7年前、この人形を埋めた日の翌日、ボクは、大きな木の上に登っていて、そして……祐一君の目の前で、木の上から落っこちたんだよ』
『…………!』
『その時以来、“本当のボク”は病院のベッドの上でずっと眠っていたみたい。そして、ボクはずっと夢を見続けていた。駅前のベンチで、祐一君を待っている夢を、来る日も、来る日も……。
そのボクが、どうして再びこの街に現れ、祐一君と再会し、名雪さんや秋子さんに会えるようになったのかは、ボクにも分からない。ひょっとしたら、この人形が再び必要になる日が近付いたから、誰かがボクをこの街に呼び戻したのかも知れないね』
…………。
確かに7年前、この街に立っていた大きな木に登って遊んでいた女の子が上から落ちる事故があった。
その時の女の子が、確か「月宮あゆ」という名前だったと、おぼろげながら覚えていた。
でも、あの日、商店街で私の目の前に現れたこの元気な女の子が、その時の女の子とは思えず、私は記憶違いか、名前の偶然の一致だと考えた。
だって、あの女の子は、その事故で死んでしまったとばかり思い込んでいたから――。
『でも、ボクも もう限界が来ちゃったみたい。この人形を掘り当てた瞬間、今まで忘れていた記憶が全部戻って来て、そして分かっちゃった。
このボクは“本当のボク”じゃないということ。
“本当のボク”が今どんな状態でいるかということ。
そして、“本当のボク”の命が、もうすぐ終わろうとしているということも』
『あゆちゃん……それでいいの?』
私は、穏やかに諭すように、あゆちゃんに聞きました。
『えっ……?』
『あゆちゃんだって、まだ死にたくないでしょ?』
あゆちゃんは、じっと無言で考えてから、答えました。
『……うん』
『あゆちゃんだって、本当は祐一さんと別れたくないんでしょ?』
『……うん』
『だったら――』
『でも、ボクは……もう、駄目だから』
『えっ……?』
今度は私が、疑問を浮かべる番でした。
『祐一君は……もうボクのこと、見てないから』
『そんなこと――』
『ほんとなんだよ! 祐一君が好きなのは、ボクじゃなくて、名雪さんなんだからっ!』
『…………!』
私は、言葉を失いました。
『この人形は、確かに持ち主の願いを叶えてくれるけど、でも……祐一君に出来ない事は、叶えることが出来ないんだよ。つまり、それって……いくらボクが この人形に願いを込めても、その願いが祐一君の想い、祐一君が願っている事と一致していなければ、叶えることは出来ないってことなんだよ』
『…………』
『ボクね……あの日、商店街で祐一君に別れを告げて、この世から姿を消してからも、ボクは自分の夢の世界にとどまって、この世にいる祐一君をずっと遠くから見続けていたんだ。自分の命が残り少ないのは分かっていた。だから、せっかく7年ぶりに見付け出すことの出来た人形だもん。この人形に残された、最後の一つの願いを、祐一君に使ってあげようと思ったんだ。
そしたら――秋子さんがあんな事故に遭った。
そして、名雪さんは悲しみに押し潰されてしまった。
祐一君の大事な人である、名雪さんが』
『でも、名雪は――』
『うん、分かってるよ。
確かに祐一君と名雪さんは、あの悲しみを乗り越えて、また笑顔を取り戻すことが出来た。
でもそれは、秋子さんはもう いなくてもいいってことじゃないと思うんだ。
ほら、まだ二人とも高校生だし、だから……その、親というか、先輩というか、支えというか……とにかく、そういうのが まだ必要なんだと思うんだよ』
精神的に二人(特に名雪)が私から自立できたとしても、まだ高校生である二人には、保護者として、経済的支えとして、そして人生の頼れる先輩として、私、水瀬秋子という存在がまだまだ必要なのだ。
――あゆちゃんは、そう言いたかったのでしょう。
『それに……ボクも、お母さんがいないから』
『あゆちゃん、それって、まさか……』
『ボクのお父さんもお母さんも、随分前に死んじゃったから。
だから、ボク、分かるんだよ。お母さんがいないってことが、どんなにつらい事か。どんなに悲しい事か。
だから……ボク、名雪さんを、そして、秋子さんを本当に助けたいんだよ。
祐一君の大事な人である名雪さん、ボクにとっても憧れの名雪さんが、ボクと同じ目に遭うところなんて、見たくないんだよ!』」
*
「あいつ……」
秋子さんの長い独白を聞き、俺はそう呟いた。
でも俺はなぜか、心の奥底でそれを納得していた。
あの あゆなら、そういう行動を取っても おかしくないと。
「私には、もう あゆちゃんの訴えを拒むことは出来ませんでした。そんなことをすれば、あゆちゃんを余計に悲しませるだけだと、分かってしまいましたから。
祐一さん、私は間違っているのでしょうか?」
「…………」
俺は、何も答えられなかった。
そんな俺の気持ちを察したのか、秋子さんは更に言葉を続けた。
「私が病院のベッドの上で意識を取り戻した、ちょうどその頃、あゆちゃんが7年間目覚めることなく、別の病室で静かに息を引き取ったのは、後で知りました。
私は、あゆちゃんの遺骨が誰からも引き取られず、病院内に安置されたままであることを知り、遺骨の引取りを病院に申し出ました。
そして建てたのが、この小さいお墓です。
私と名雪を救ってくれた あの子への……せめてもの……お返しとして……」
そう言う秋子さんの目からは、一筋の涙が流れていた――。
名雪編が語られた以上、次は栞編ですね。
さて、栞は あゆの死を知っているのでしょうか――。