あゆの世界の9月2日。
学校から走って来た俺は、病院に着くや、一直線にリハビリルームへ向かった。
「うんしょ、うんしょ……」
リハビリルームに入ると、そこでは既に、歩行運動器に乗った あゆが、その手すりを両手でしっかりと握り、懸命にローラーを転がしていた。
「よっ。やってるな、あゆ」
「あっ、祐一君!」
あゆは俺の方へ振り向いた。その表情には、あゆの はじけるような笑顔があった。
「いらっしゃい、相沢さん」
そばに付いていた冬木(ふゆき)さん――ずっと あゆのリハビリを担当している訓練士の青年も、俺にあいさつを交わす。
「どうです、あゆの調子は?」
俺は、冬木さんに聞いた。
「いや、月宮さんの回復ぶりには驚く他ありません。彼女は、いわば成長期の7年をベッドの上で暮らしていたじゃないですか。本当なら、この状態まで もってくるだけでも、やはり最低7年はかかるはずなんです」
「やはり、そういうもんなんですか」
「ええ。それが実際には、1日1日、月宮さんが確実に回復していくのが目に見えて分かるんですよ。見てて気持ちいいくらいです」
「そうなの?……ボク、あんまりよく分からないけど」
再びローラーを転がし出した あゆが、首をひねった。
「冬木さんを信じろって。実際、俺から見ても そう思うぞ」
「うん。祐一君がそう言ってくれるんなら、信じるよ」
この あゆの台詞には、冬木さんも、
「はは……やっぱり彼氏には勝てないか」
と、苦笑いを浮かべるしかなかった。
こうして、俺・あゆ・冬木さんの3人揃ってのリハビリが、今日も始まった。
*
俺がリハビリに付き合い出してから、1時間ほど過ぎた頃だろうか。
窓の外から、「ピーポーピーポー」と お馴染みのサイレンを鳴らして、救急車が この病院に入って来た。
「何だろう……今の」
あゆが、心配そうに窓を見詰める。
「おいおい、病院に救急車なんて当たり前だろ」
というか、この街で救急病院といえば ここくらいだから、救急車なんて、それこそ引っ切りなしに入って来る。いちいち気にしていたら、それこそ切りがない。
「それはそうなんだけど……」
やがて冬木さんが、
「それじゃ月宮さん、今日はこのくらいにしておきましょう」
と言ったのに合わせて、俺たちはリハビリの後片付けに入った。
それから数分たった頃だろうか。
突然、外の廊下から けたたましい靴音が響いてきた。
靴音は段々と大きくなり、そして、リハビリルームの入口の前で止まる。
そして――聞き覚えのある声。
「祐一っ!」
「名雪……!」
「名雪さん……!」
突然、大声で呼ばれて俺が振り返ると、入口には、はあはあと肩で息をしている名雪が、ひざに手をやって立っていた。
毎日 家から学校まで走って登校して、全然平気な顔をしている名雪だから、こういう姿はかなり珍しい。
「どうしたんだ? わざわざ病院まで、俺に何か――」
そう言いかけた まさにその時、俺の脳裏を、ある不幸な「記憶」がよぎった。
いや、それは俺の記憶ではなく、「名雪の世界の俺」の記憶だ。
「俺」と名雪が結ばれた日から二日後の事。
イチゴのケーキを携え、外を歩いていた秋子さんが、猛スピードを上げた自動車に跳ね飛ばされた、不幸な事故。
そして、その時 秋子さんが運び込まれたのも、世界は違えど、この病院だった。
「ま、まさかな……」
そう呟き、俺は努めて冷静な表情で名雪に対した。
しかし名雪は、ふらふらと俺の元に近付き、そして、
「……祐一っ!」
と、いきなり俺に抱き着いてきた。
「お、おいっ、名雪!」
「わっ、駄目だよ、名雪さん」
あゆも、本当なら すぐにでも運動器を飛び降りて、俺と名雪の間に割って入りたいところだろうが、まだ足を自由に動かせる状態ではないため、運動器の上で「うぐぅ」と悔しがるだけだった。
そんな、一見 痴話喧嘩の如き光景も、次の名雪の台詞で一息に消し飛ぶ。
「お母さんが……お母さんが……」
「秋子さんが……どうしたんだ?」
違うよな……。
いくら何でも、そんなわけは……。
「……自動車に」
…………。
その瞬間、俺の周りだけ、世界が凍り付いた――そんな気がした。
*
それから、更に1時間後――。
「全く、びっくりさせるなよな、名雪」
「う~っ、だって……だって……」
「ごめんなさいね、心配かけてしまって」
病院のロビーの一角には、俺と名雪、足首に包帯を巻いた秋子さん、そして車椅子に乗った あゆの4人がいた。
結局のところ、何が起こったのかというと――。
名雪と秋子さんが、いつものように夕飯の食材を買いに商店街に向かっていた道中、二人の横を1台の乗用車が猛スピードで突っ込んできたのだ。それで、危険を感じた秋子さんが、とっさに名雪をかばうように抱きかかえながら車をかわし、そのまま地面に倒れ込んだわけだ。
そのため、実際には車は二人に接触することなく、そのまま通り過ぎて行ったのだが、足首に無理な力がかかったせいで、秋子さんは その場で動けなくなってしまったのだ。
で、名雪は、何が起こったのか瞬時に理解できず、ただ秋子さんがしばらく起き上がれなかったため、すっかり気が動転してしまっただけなのだ。
一応、秋子さんは念のため精密検査などを受けたが、足首をねんざした以外には特に外傷等もなく、今、こういて元気に俺たちと喋っている――と、まあ、そういうわけだ。
「良かったね、秋子さん。大した事なくて」
あゆが車椅子の上から、秋子さんに微笑みかけた。
「おい、名雪はともかく、何であゆまでそこまで心配するんだ?」
「だってボク、秋子さん、大好きだもん!」
「そうか……あゆは俺を捨てて、秋子さんに走ったか」
「わ、わっ! そうじゃなくて……。ボクが好きなのは祐一君で、で、名雪さんや秋子さんは……って、あれ? やっぱり好きで……え、えーと……」
「分かってるって。秋子さんには いわば家族愛の“好き”で、俺には恋愛の“好き”だろ?」
「祐一、そういう恥ずかしい事、真顔で言わないで」
あ、名雪が俺をにらんでる。
「そうか?」
…………。
その後、しばらく4人で談笑していたが――。
「わたし、祐一が帰って来るまで、ずっとお母さんと二人きりだったから……」
突然、名雪がそんなことを言った。
「だから、もしお母さんに もしもの事があったら、わたし……」
「名雪……」
俺の脳裏に、「あの日」、部屋に閉じこもってしまった名雪の姿がよぎる。
「分かるよ、名雪さん」
「あゆちゃん……?」
「だって、ボクのお母さんも、随分前にいなくなっちゃったし」
この あゆの言葉には、名雪も
「あ……」
と、声を発するだけだった。
「ボク、名雪さんも秋子さんも大好きだよ。だから、秋子さんは ずっと元気でいて欲しいし、名雪さんにだって、ボクが受けたつらい事を味わって欲しくないよ」
「あゆちゃん……」
と、秋子さん。
「だけど、もし秋子さんに もしもの事があっても、ボクにはもう、何も出来ないから……」
「どういう意味だ、あゆ?」
思わず聞いてしまった俺に対する、あゆの答えは――。
「だって祐一君、もうボク、最後の願い、使っちゃったし……」
この先、どうしよう……(笑)。
最後に どうまとめるか、だけは決めているのですが。