9月1日。
『朝~、朝だよ~。朝ご飯食べて学校行くよ~』
カチッ。
すっかりお馴染みの、目覚し時計から発せられる名雪の声で、目が覚める。
長いようで短かった有意義な期間は幕を閉じ、今日からまた、退屈と苦闘の日々が始まる。
そう。今日から2学期。
俺は、若干うっ屈した気分で布団から抜け出……。
ドテン。
「んにゃ!」
「あぅっ!」
「あ……」
……また、やってしまった。
完璧に熟睡していた俺は、布団の上で丸くなっていた こいつらの存在をすっかり忘れていた。お陰で、俺がベッドから起き上がろうと思いっ切り掛け布団をひっぺはがした途端、こいつらはベッドから転げ落ちてしまった。
ちなみに「こいつら」とは、猫1匹と、狐1匹。
初めて会った頃と違い、2匹ともすっかり丸々と成長している。
そうか。もうこいつらは子猫、子狐じゃないんだな――。
「祐一!」
ベッドの横で怒鳴り声がしたので振り向いて見ると、猫――もちろん、ぴろである――の横には、狐の毛並みを思わせる茶色の髪の毛をリボンで結び、カエルの柄をあしらった緑色のパジャマを着た少女が、後頭部を両手で押さえながら「あぅーっ」とうなっていた。
「よっ、おはよう、真琴」
「人をベッドから落としといて、何、わざとらしく さわやかに あいさつをしてんのよ!」
「いや、俺は真琴を落とした覚えはないぞ……って、そういえば真琴、さっき俺がベッドから落とした狐、知らんか?」
「祐一、それ、白々しすぎる……」
よほど頭がズキズキするのか、真琴の瞳には少し涙が浮かんでいた。
今更説明する必要もないだろうが、さっきまで俺の上で……いや、俺の布団の上で寝ていた狐が、この真琴である。
「大体だな、落とされるのが嫌なら、自分の部屋で寝たらいいだろうが」
「だって、ぴろが祐一と一緒に寝たいって言うから」
「んにゃあ」
同意するように、ぴろが一声鳴いた。
動物とも意思が通じ合えるとは、さすがは妖狐である。
「それならせめて、その姿で俺の横で寝ろ。わざわざ狐の格好で、俺の上で丸くなってることはない」
「やーよ。そんなことしたら、祐一、絶対Hな事するもん」
「3日前、シースルーのネグリジェであからさまに誘惑してきた奴の言う事か」
そう言うと、真琴は顔を真っ赤にして、
「あ、あの時は……その……祐一に思いっ切り抱いて欲しかったから……」
「今は?」
「キスも駄目!」
そう。真琴は相変わらずの気分屋で、抱かれたい時とそうでない時が両極端なのだ。
「まるで発情期だな。さすがは妖狐、ってとこか」
「それは言わ……」
何か言いかけた途端、急に真琴が黙り込んでしまった。
よく見ると、真琴は視線を斜め前方に向け、何かぼーっと立ち尽くしているような仕草をしていた。
「……どうした、真琴?」
俺の問いかけに、真琴は我に返ったのか、
「……ううん、何でもない」
と言って、いつもの笑顔を取り戻した。
「……まあ、いいや。そろそろ秋子さんの朝食が出来てる頃だしな」
「うん」
俺達は、揃って階段を降りてリビングへ向かった。もちろん、真琴の頭の上には、ぴろがしっかりと鎮座していた。
*
沢渡真琴――いや、今は水瀬真琴か。
『じゃあ、相沢さんなら、何をお願いしますか?』
『そうだな……』
校庭で何気なく天野とそんな会話をした、まさにその日。
そのまま俺と天野が商店街を歩いていた時、真琴は、再び俺達の前に姿を現した。古びた布をまとった、あの1月9日の時と同じ姿で。(もっとも、今回は頭にぴろを乗せていたが)
そして、猛烈な勢いで俺に抱き付いてきた――正確には、俺が天野と一緒にいたのを見て浮気と勘違いし、俺に襲いかかってきた……つもりだったらしい――真琴を、俺は思い切り抱きしめた。
最初は暴れていた真琴も、俺の本当の気持ちに気付いたのだろう、やがて静かになり、黙って俺に体を預けてくれた。
そして真琴は、俺と一緒に水瀬家に帰って来た。
いかにもバツの悪そうな顔をしていた真琴だったが、名雪も秋子さんも、そんな真琴を暖かく迎えてくれた。
そして数日後、秋子さんは真琴と養子縁組を結び――一体どんな手段を講じたのかは、俺の知るところではない――、真琴は正式に、水瀬家の一員となったのである。
今にして想えば、あの1月の日々、そして、かつて夢に見た“闇の世界”での3カ月(と、真琴は言っていた)は、真琴にとって、一人前の妖狐になるための試練だったのだろう。
そして、俺にとっても。
帰って来る保証のないあいつを、いつまでも待ち続けられるのか。
ありのままの真琴――決して人ではない、妖狐である真琴を、受け入れることが出来るのか。
真琴が俺の腕の中から文字通り消えてからの、空白の3カ月、俺は試されていたのかも知れない。
*
朝食を済ませ、相も変わらず時間ギリギリで起きてきた名雪の尻を叩くように(いや、本当に叩くわけではないが)、いつものように駆け足で学校へと向かう。
そして学校では、突っ立ったまま、どういう訳か、何度も聞いたような気がする、校長先生の退屈な話を聞かされ、始業式終わり。
そして、教室での担任の型通りのあいさつだけで、ホームルームも終わった。
「祐一、放課後だよ」
担任が教室を出てすぐ、俺の机の横に名雪が寄って来た。
「そうだな。今日は帰りに商店街に寄ってと……どうする、名雪も一緒に行くか?」
すると、名雪は済まなそうに、
「ごめん祐一、わたし、今日も部活」
「2学期早々、いきなりか?」
「うん、大会も近いし。それに……」
「それに……何だ?」
「わたしが祐一と一緒に歩いてるところを、もし真琴に見付かったりでもしたら、あとあと大変だから」
そう言った名雪は、なぜか笑顔だった。
いつもなら、俺が帰る頃には真琴が校門で待ってくれている。
しかし、今日はこっちが始業式だけなので午前中に終わるのに対し、真琴は保育所のバイト(帰還してすぐに復帰した)が正午まで終わらない。
そのため、今日は久しぶりに一人で帰り道を歩くことになった。
と言っても、その途中、商店街に寄って行くわけだが――。
*
CDの新譜を買い、再び通りに出たところで、雑貨屋が目に留まった。
いわゆる何でも屋という奴で、真琴はここでよく、鈴をあしらったアクセサリーを買ってくる。真琴は、相変わらず鈴がお気に入りらしく、真琴の部屋は、そんなアクセサリーのコレクションで、文字通り鈴なりになっている。
『あの目覚まし時計、ここで買ったんだよ』
そういえば、名雪もそんなことを言ってたな。もっとも、名雪の大量の目覚ましは、別にコレクションというわけではないが。
――って、いつ言ってたっけ?
また、その店の近くでは、半年前にはたい焼きを売っていた おじさんが、アイスキャンデーの屋台を引いていた。
冬になって、この屋台がたい焼き屋に戻り、そして春になって店仕舞いする頃には、あゆも外出できるようになるだろうな。
――って、あゆって誰だ?
自分の中に、何か引っかかりを覚えつつ、俺は商店街を後にした。
*
ダイニングルームで秋子さんが昼飯の準備を進めていた頃、玄関でドアの開く音がした。
「ただいまーっ!」
直後、真琴の元気な声と、どたどたとこちらに向かって来る足音が、家中に響いた。
「あっ、ただいま、祐一」
「ああ、お帰り、真琴」
俺は真琴に向けて、軽く右手を挙げる。
「お帰りなさい、真琴」
秋子さんも手を止め、真琴に微笑みを向けた。
「残念だったね、祐一」
そう言いながら、真琴はテーブルの、俺の向かいの席に着いた。
「何が?」
「真琴と一緒に帰れなくて」
「そうか? 俺は楽しかったぞ。いやあ、帰り道を一人で自由気ままに歩くことが、これほど有意義だったとは、すっかり忘れていたぞ」
こんなことを言われたら、これまでの真琴なら、思いっ切り かんしゃくを起こすところだろうが、目の前の真琴は、余裕の笑みで、
「またまたー、無理しちゃって」
と、俺の本音を読み切っていた。
これも、成長のうちなんだろうか。
やがて、俺達の目の前に、いかにも おいしそうな料理が並べられ、昼飯の時間となった。
*
昼飯のあと、俺は部屋に行き、ベッドに横になった。
そして、いつの間にか、俺は夢の中にいた。
夢。
夢の中で見たもの。
それは、俺の体験。俺の、記憶だった――。
7年前――いや、もう8年前か――夏休み、小狐を拾い、そして野に放したこと。
そして冬休み、一人の少女と出会い、一緒にたい焼きを食べたこと。
その少女――あゆとの“学校”での悲しい事故。
その日の午後、名雪が作ってくれた雪うさぎを手で叩き壊したこと。
そして、今年の冬。
名雪との再会。そして、名雪が俺の部屋の片付けを手伝ってくれたこと。
商店街での あゆとの再会。
商店街での真琴との出会い。
あゆが、俺の部屋の片付けを手伝ってくれたこと。
あゆの捜し物を手伝ったこと。
真琴が毎晩のように いたずらを仕掛けたこと。
ぴろを巡って、真琴と喧嘩したこと。
翌日、商店街で見付けた真琴に安心し、家に帰ったこと。
真琴を丘まで追い、家まで負ぶって帰ったこと。
あゆが水瀬家に泊まったこと。
天野と出会ったこと。
名雪と一緒にテスト勉強をしたこと。
真琴と結ばれたこと。
名雪と結ばれたこと。
あゆと結ばれたこと。
秋子さんが交通事故に遭ったこと。
駅前で、雪の中、名雪を待ち続けたこと。
森の切り株で、あゆと再会し、そして別れたこと。
真琴との丘での結婚式、そして別れ。
秋子さんの退院。
あゆとの、病院での再会。
真琴が帰って来たこと。
あゆのリハビリに付き合う日々。
そんな数々の出来事が、走馬灯のように次々から次へと――って……。
「ちょっと待て!」
気が付くと、俺はそう声を上げて、ベッドから跳ね起きていた。
「何なんだ、今のは……?」
思わず、俺は一人ごちた。
ついさっきまで夢に見た、俺の体験。
全て思い当たる節がある、俺の記憶。
それにしては……余りにも矛盾だらけじゃないか!
あの日、俺は確かに真琴をものみの丘まで追い、そして ぴろも連れて真琴を負ぶって家まで帰って来た。そうでなければ、今の真琴との生活はない。
なのに、なぜ真琴を最後まで追わずに家に帰った記憶があるのか。
それに。
俺の恋人は、間違いなく真琴だ。夜、真琴を抱いた回数は数え切れない。
しかし、名雪を抱いたことも1度や2度ではないことを、俺の記憶は告げている。
さすがに、あゆを抱いたのは あの1回きりだが(何しろ、あゆは今入院中だ)。
その あゆにしても――俺は、今の今まで、その存在すら忘れていた。
それを、なぜ今日になって、いきなり思い出したのか。
混乱する記憶。
しかし、俺にはなぜか、それらが全て事実であるという確信があった。
一体俺は……。
その時。
自分の身に何が起こったのか理解できずに、悩みの中にいた俺を、わずかに開いたドアの隙間から呼ぶ、真琴の声があった。
えー。
当初は、各ヒロインが出揃う第5話までは、各話が各ヒロインの ほのぼの短編としても通用するものを、と考えていたのですが、真琴ほのぼの話がどうにも思い付けず、路線を変更。急きょ、本筋突入となってしまいました。
そのせいか、真琴登場話が1話でまとまらなくなり、2話に分ける羽目になりました。これにより、栞登場は第5話、舞・佐祐理登場は第6話にそれぞれシフトします(ただ、これも「今のところは」ですが……)。
さて。
今回のSSの都合でも何でもなく、私は真琴は、あのエピローグの段階で帰って来たと確信しています。
その根拠が、最終CG「丘で眠る真琴とぴろ」の直前に出てくる、「丘から見た街の全景」CGの存在です。最終CGが単なる願望シーンであれば、あの全景CGは全く不必要、というか不自然極まりません。全景CG→最終CGという展開は、現実のシーンとしてしか解釈のしようがないものです(あのエピローグの一連の流れを、映画の1カットとして考えて見てください)。
それに、「奇跡による大団円的ハッピーエンド」は、全シナリオを貫くKanonの世界観そのものです。あのまま真琴が消えたきりだとしても(単独の)ストーリーとしては成立するでしょうが、もし帰って来なければ、作品全体の世界観が崩壊してしまいます。
というわけで、次回は真琴話・後編です。
※2002-03-25追記――漢字等を一部修正しました。