一方、“壁”の向こう側では、
「う、くっ……」
左手を失った「千夏」がようやく、よろよろと立ち上がっていた。
彼女は、手先を失った自分の左腕の、肘と手首の間を右手で掴んでいた。
そして、彼女が「ふんっ!」と気合を入れ、右手に力を込めた瞬間――。
「…………!」
カグツチと七海たちは、皆一様に息を呑んだ。
「千夏」の左腕の真下に位置する地面から、泥が次々と吸い上げられ、左腕の切断面に集められていく。
そして瞬く間に、集められた泥は形を成し、元通りの左手となっていったのだ。
熊助は、「千夏」に対し半身(はんみ)の姿勢を取ったまま“壁”の方向へ振り返り、カグツチたちに向かって、大声で言った。
「これで分かっただろう。こいつは千夏なんかじゃ――」
言いかけて、熊助はようやく気付いた。
カグツチや七海たちが、極めて重い空気に包まれていることに。
漫画的に言えば、カグツチたちの表情に何本もの縦線が引かれ、その頭上に「どよ~ん」と文字が掲げられている状態だ。
思わず熊助もトーンダウンする。
「……どうした、みんな?」
実は泥の塊だった左手。そして、どんな深手をも修復してしまえる体。
それは、カグツチたちが20年前に目の当たりにした「千夏」の姿、そのものだった。
カグツチと七海たちが洞窟で出会った、桐山千夏。
しかし、悪霊となり果てた彼女の体は、もはや人の体ではなかった。
泥で作られた体は、どんなに傷付けられようと、瞬く間に自らを修復した。
そして――力尽きると共に、ただの泥の塊となって崩れ落ちてしまったのだ。
「そんな……どうして……」
七海は、その時の「千夏」と目の前の「千夏」を重ね合わせ、ただ呆然としていた。
「千夏……ちゃん」
カグツチもそうつぶやき、グッと唇を噛んだ。
何やら、話がややこしくなってきたので、ここで、この場にいる人々それぞれの、現在の心境をまとめておこう。
まずは、“壁”の内側で、ひとり「千夏」と向かい合っている熊助。
〈みんな、どうしたっていうんだ?
そりゃ、脅かしたのは悪かったが、こいつが本物の千夏じゃねえってのは、ついさっき、俺が投げ付けた左手を見りゃ分かっただろうに〉
次は、“壁”の外側から、二人を見つめる七海。
〈そう。熊助君は知らないのよ。
確かに、今の千夏は人間の体じゃない。でも、今の泥の体――あれは、20年前、私たちが洞窟で出会った千夏ちゃんの体と、全く同じ。
つまり、千夏は沼に落ちた挙げ句、前世に乗っ取られて、本当に『千夏ちゃん』に……〉
そして、七海ら「母親たち」のそばにいるカグツチも。
〈一足遅かったか。
目の前の『千夏』が、千夏ちゃんの体を奪ったと言ったのは、事実ではなかった。
それが事実だったら、どれほど良かったか。また、元の千夏ちゃんに戻れる可能性があったからな。
しかし、今の彼女は千夏ちゃんの体じゃない。あの時と同じ、泥でこしらえた悪霊の体だ。
つまり、千夏ちゃんは人の体を失い、完全に悪霊に……〉
そんな中、ヒミコだけが、
〈なるほど、そういう事でしたか。
千夏さん……いえ、あなたが何物かは知りませんが、カグツチたちは騙せても、かつての方士・徐福、そして悪霊の長だった私の目はごまかせませんよ〉
と、ひとり真相を見抜いていた。
やがてヒミコは、カグツチと七海たちの誤解を解くべく、彼らの背後に歩み寄った。そして言った。
「皆さん、何か勘違いしていませんか?」
七海は振り返った。
「えっ……?」
「目の前の千夏さんは、人間の体ではなく、泥で出来た悪霊の体。
つまり、20年前のあの時のように、沢木千夏さんは死んでしまった上に、魂までも前世に乗っ取られ、悪霊と化した桐山千夏さんになってしまった。
皆さんは、そう思っているのでしょう?」
ヒミコの語りに対して、渚が問い返した。
「違うっていうの?」
綾香も言った。
「だって、あれは千夏ちゃんじゃ……」
皆の反応は当然である。
確かに、目の前の「千夏」は人間の体ではない。
しかし、だからこそ――20年前と同じ「泥の体」であるからこそ、彼女が千夏、それも「前世の千夏」であることを、誰も疑わなかった。
しかし、ヒミコは続けてこう言った。
「皆さんには分からなくて当然です。この私でさえ、最初は気が付きませんでした。
実のところ、昼休みに、千夏さんの魂に直接触れていなかったら、未だに気付いていなかったかも知れません」
ここで、カグツチが気付く。
「魂って……まさか、魂が違う!?」
それを見た上で、ヒミコは全員を前にきっぱりと言い切った。
「はっきり申し上げましょう。
あの彼女の体には、沢木千夏さんの魂は宿っていません。
それどころか、彼女に宿っているのは、本物の人の魂ではありません。精巧に作られた模造品です」
「…………!」
「それじゃ……あの子は『千夏』でも、『千夏ちゃん』でもない!?」
七海の言葉に対して、ヒミコは答えた。
「そうです。あれは、沢木千夏さんでもなく、悪霊と化した桐山千夏さんでもありません。
何者かが千夏さんに似せて作った。ただの泥人形です」
そしてヒミコは、“壁”の向こうで今も「千夏」に対峙(たいじ)している熊助に語りかけた。
「そうですね、熊助?」
すると、熊助は背を向けたまま、ヒミコに答えた。
「なるほど、そういうからくりだったか。
もっとも、俺には魂なんて分からねえ。ただ、目の前のこいつが、千夏の体じゃねえと見破れたから、本気で潰しに行っただけだけどな」
ここで、「千夏」――いや、もういいか。偽千夏が、熊助に問いかけた。
「お前が……なぜ分かった?」
何とか立ち上がってはいるものの、体力も霊力も尽きて、ふらふらの状態である。
目の前の人形には、もはや攻撃の意思は感じられない。
熊助は、改めて長棍の刃を彼女に突き付けて、こう答えた。
「最初から、何か変だとは思ってたんだ。てめえからは、千夏のにおいをまるで感じなかったからな」
熊助の台詞を聞き、カグツチは首をかしげた。
「におい……?」
すると、タギリが近寄ってきて、こう説明した。
「熊助様には、そう感じるのでしょう。つまりは、私たちが発する、気のことですよ。
前世の頃、無数の悪霊と相まみえた経験から、熊助様は、人間や悪霊から感じる独特の気を感じ取ることが出来るようになっています」
「ああ、なるほど」
カグツチは納得した。そう言われてみれば、自分にも心当たりがある。が、「――待て。前世って?」
「詳しくはのちほど。それより、今は前を」
そう言ってタギリは、カグツチを再び“壁”の中の二人に注意を向けさせた。
熊助は一旦長棍の先を下ろし、続けて偽千夏に言った。
「最初は、悪霊と化した前世が、千夏の体を乗っ取ったせいだと思った。だが、いくら乗っ取られたとはいえ、千夏の……いや、人間のにおいさえ全く感じないというのは、さすがにおかしいと思った。
そして――てめえが攻撃のために、自分の手を光らせた時、俺は気が付いた」
「手、だと……?」
すると熊助は、相対する彼女の顔を左手で指差し、言い放った。
「千夏の左手の甲には、小さいほくろがあるんだよ。
しかし、てめえの左手には、それがなかった!」
それは、熊助が初めて――まあ、その1度きりだが――、千夏を抱いた時。
思わず、両手で目元を隠す千夏。その左手の甲にあった、小さなほくろ。
――今も熊助の目に焼き付いて消えることのない、思い出のワンシーンである。
その情景を思い出しながら、熊助は内心ほくそ笑んだ。〈ふっ、決まったな〉
しかし、その時。
ゴゴゴゴゴ……。
なぜか、“壁”の外側で、まるで瘴気(しょうき)のようなどす黒い空気が発生したように、熊助には感じられた。
「……えっ、どうした?」
熊助が振り返ると――その空気の発生源は、3人の「母親」でした。
「……熊助君、それって、どういう事かしら?」
七海さん、笑顔が引きつってます。
「はあ……。自分がへこむから言いたくないけど、若い子ってこれだから」
年齢が気になる渚が、ため息をついた。
「熊助君、男らしく、責任は取りなさいよね」
そして、元保健医の綾香が、講釈を垂れた。
はい、3人とも、熊助がほくろのことを知っている「意味」に、感付いてしまいました(笑)。
「あー、もう! 男として、ちゃんと責任は取るつもりだから」
七海たちに対して、見苦しく言い訳する熊助。さっきとはどえらい違いである。
「ハハハハ……」
そして偽千夏は、そんな熊助に向かって、わざとらしく笑った。
「何がおかしい!」
すると彼女は、こんな答えを発した。
「……ごめんね。でも、千夏って、本当にあなたに愛されてたんだなって思うと、思わず笑っちゃった」
「何だよ、それは」
「安心なさい。今頃、彼女もあなたを見て喜んでるわ」
そして続けた。熊助と、この場にいる人たちを絶望へと叩き落とすために。
「――この、沼の底からね」
その瞬間、辺り一面の空気がピシーンと凍り付いたように、皆には感じられた。
――そう。今、目の前にいる「千夏」が偽物なら、本物は今どこに……。
熊助は再び長棍を握り締め、偽千夏に詰め寄った。
「……どういう事だ」
すると彼女は、まるで謎々でも出すように、こう言った。
「千夏は沼にやって来ました。そして、一緒にいた何者かによって、沼に落とされてしまいました。
そして、皆さんが沼にやって来た時、千夏の姿をした何者かが、沼から上がってきました。
でも、それは本物の千夏ではありませんでした。
では、本物の千夏は今、どこにいるのでしょうか?」
ここでカグツチが、ハッと気が付いた。
「そうか、時間稼ぎ!」
偽千夏、これまたわざとらしく答える。
「ピンポーン。
人間が何も付けずに水中に潜り続けられる時間って、世界記録でも15分そこそこなんですって。ちなみに、彼女が沼に落ちたのは、今から30分ほど前。
ふふふ……絶望的な時間ね」
「嘘……」
七海は、呆然とつぶやいた。他の人たちも、言葉を失った。
無理もない。目の前の「千夏」が偽物と分かり、本物の千夏はまだどこかで無事に生きていると思った矢先に、非情な現実を突き付けられたのだから。
そんな彼らに追い打ちをかけるように、偽千夏は言い放つ。
「疑うんなら、沼に飛び込んで、底をあさってみる? もう手遅れだろうけど」
不敵に笑う彼女に対し、熊助は詰問した。
「分からねえ……。わざわざ偽物までこしらえて、一体何のために」
すると偽千夏は、抜け抜けとこう答えた。
「さあ?」
「さあ、だと?」
「だって、本当に知らないもの。私はあの男から、千夏に扮してあなたたちを足止めするように言われただけだから」
「誰だよ、あの男ってのは?」
「人形の私を造った、いわば創り主よ」
「さっき、千夏は一緒にいた何者かに落とされたと言ったな。まさか、そいつも」
「そう。あの男がこしらえた、偽熊助。つまり、あなたに扮した泥人形よ」
「俺の……偽物?」
「あの男は言ってた。彼女を確実に沼までおびき寄せるためだって。千夏ったら、ひとりで行こうか行くまいか悩んでて、決心が付かないみたいだからって」
「それじゃ、あいつは……その人形を俺だと思い込んで」
「どうして、そんなに暗い顔をしてるの? もっと喜んだら。あなたはそれだけ、彼女に信頼されてたってことなんだから」
「妙だな」
二人の様子を“外”から見ていたカグツチが、ふとつぶやいた。
「えっ、何が?」
我に返った渚が、カグツチに聞いた。
「…………」
七海は依然、呆然自失な様子である。
渚の疑問に対し、カグツチが答えた。
「千夏ちゃんが死んでいるかも知れないというのに、熊助君、やけに落ち着いてないか?」
それに対し、綾香が言った。
「ショックの余り、もはや開き直っちゃってるとか」
「そうかな? 例えば俺だったら、僅かな可能性を信じて、真っ先に沼に飛び込んでると思う。熊助君も、そういう男じゃないのか?」
すると、カグツチの背後から、ヒミコが彼に言った。
「カグツチらしくありませんね。ネノクニのカミともあろう者が、まだ気が付かないのですか?」
「何だと……?」
そうやら、ヒミコは気付いているらしい。
「黙って、熊助を見ていなさい。嫌でも、もうすぐ分かります」
熊助の詰問は、なおも続いた。
「でも、結局そいつは、千夏を沼に……」
心の内を悟られないよう、自らを落ち着かせて語る熊助に対し、偽千夏は得意気に語る。
「何も知らない人だったら、千夏とあなたが“無理心中”したようにしか見えなかったんじゃないかな。
あれは見ものだった。彼女、寸前になって偽熊助の正体に気付いて、必死に彼を振り解こうとしたんだけど、やっぱり男の力の方が強かった。その時の、彼女の絶望に満ちた顔と、あんたの名前を必死に叫ぶ様子といったらもう」
それを聞いて、熊助は思い出した。
「……そうか。あの時、俺が聞いた千夏の声は、その時の」
「へえ。あれが届いたの? それは素直に凄いと認める。愛の奇跡って奴かな」
「奇跡ねえ……」
「ふふふ……」
「ふふふ……」
張り合うように、不敵な笑いを見せ合う二人。
そして――熊助は言った。
「……そうすると、こうしてまんまと時間を稼げたのも、千夏が呼んだ奇跡なのかも知れねえな」
これを聞いて、偽千夏は瞬時に血相を変えた。
「何ですって……!?」
すると熊助はにやりと笑い、それまで片手で持っていた長棍を両手に持ち替え、自分の胸の位置に構え直した。
そして、言った。
「へへへ……こうも見事に引っかかってくれるとはな。まさに策士、策に溺れるって奴だな」
今度は、偽千夏の方が恐れを抱く番だった。
「どういう事!?」
「あんたの目的は、千夏が確実に溺れ死ぬように、俺たちを足止めして、時間を稼ぐことだったんだろ? だったら、俺が千夏を助けに沼に飛び込もうともせず、ここであんたを相手に長々と無駄話をしている理由について、感付いても良かったんじゃないのか?」
「くっ……!」
“壁”の外側から熊助を見ていたヒミコが、つぶやいた。
「思った通りです。やはり熊助は、とうに気付いていました」
しかし、渚には、ヒミコの台詞の意味がさっぱり分からない。
「もーっ! 何がよ、一体?」
そして七海は、「…………」と、未だ心ここにあらず、といった様子である。
一方、更に熊助は、偽千夏を言葉で追撃するように、こう言った。
「その様子じゃ、今、俺たちを取り巻いている霧が段々と晴れてきてることにも、気が付いてねえだろ。
考えてみれば、この霧だって、明らかに人為的な物だ。だが、あんたにはこんな霧を発生させる理由がない。そんな事をしたら、自分だって俺の姿がよく見えなくなって、自分が困るだけだからな」
「そう言えば……」
カグツチも、熊助の台詞を聞いてようやく、少しずつ霧が晴れようとしているのに気が付いた。
その時、綾香が何かに驚いた表情を見せながら、カグツチに声をかけた。
「ねえ、ヒカルちゃん」
「何、綾香さん?」
すると綾香は、偽千夏のいる位置から遥か向こう、沼の方を指差して、言った。
「あれ、もしかして」
カグツチは、綾香の指差した方を見る。
「……あれは」
それは、よく目をこらさなければ分からないだろう。それぐらい、非常に薄ぼんやりとしか見えなかった。
しかし、霧の向こうに、灰色に滲んだ人影のようなものがあるのを、カグツチは確かに見た。
かたや、偽千夏はその存在にまだ気付いていない。
ただ、熊助を前に、もはや何も言う言葉もなく、身動きどころか身震いすら出来ないでいた。
そんな偽千夏を相手に、熊助は語り続ける。
「俺は千夏を信じられなかった。
正しくは、沼に残されたという前世の千夏と、その前世の呼びかけに結局は応えて、ここまでやって来た千夏を信じられなかった。
沼に千夏の前世がいると聞かされた時、俺には、その前世が千夏を取り殺そうとしているとしか思えなかった。
だから、いくらヒミコから言われたからといって、千夏が自ら、沼までのこのことやって来たのか、俺には理解できなかった。
だが、今なら分かる。俺だって、何度も転生を繰り返したからな。
何だかんだ言っても、前世は過去の自分自身だ。人間、自分を信じられなくなったら、おしまいってもんよ。
もちろん前世の方にも、今の千夏の魂の中に戻りたいというのが、本音ではあったんだろう。
それを責めることは出来ねえ。ある意味、帰巣本能みたいなもんだし、そうする権利はある。
しかし、それ以上に前世は、今の千夏を救いたかったんだ。
自分が沼に残ってしまったせいで、転生した魂に傷が残ってしまった。その傷を癒やすには、自分が魂の元に帰り、今の千夏と一体化するしかない。前世は、それを知っていたんだ」
もちろん、何の根拠もありはしない。しかし、熊助はなぜか、そう確信していた。
三日前、ただの当てずっぽうで、六介の正体を言い当ててしまったように。
更に熊助は言った。まるで、前世を疑ったことを悔い、前世に謝罪するかのように。
「よく考えてみれば、前世の記憶の、ほんの一かけらでしかない者が、今の千夏の魂を乗っ取るなんて、出来るわけがないんだ。今の千夏の力の方が、遥かに強いんだからな。
それどころか、自分が魂に戻れば、そのまま今の千夏に吸収され、自分の方が消滅してしまう危険性さえあった。
そんなリスクを覚悟してでも、『桐山千夏』は、『沢木千夏』を救いたかったんだ!」
それだけ言うと熊助は、偽千夏の後方、沼の方角へ目をやり、キッとにらみ付けた。
そこは、依然として霧に包まれて、その様子は熊助にも、はっきりとは見えていない。
しかし、熊助はそこにいる者、薄ぼんやりとした人影の正体を確信していた。
「そういうことなんだろ、千夏!!」
そして大声で呼びかけると、熊助は後方へ跳びはね、一瞬のうちに偽千夏から離れた。
偽千夏のそばにいては、「彼女」が偽千夏に対して力を振るうのに、邪魔になるからだ。
「何っ!!?」
偽千夏は半ば反射的に、沼の方向へ振り返る。もう、熊助に構っているゆとりはない。
その時、一帯を覆っていた霧は、既にかなりの程度まで消えていた。
それまで濃い霧の中で、人影としか見えなかった者の姿が、“壁”の外からも分かるぐらいにまで。
そして、その姿を見て――
「やっぱり……」
カグツチは、ほっと胸をなで下ろし、
「良かった……」
綾香は、まるで我が子の無事を喜ぶ母のような気持ちになり、
「嘘……」
渚は、未だ信じられない様子で、その姿を見つめ、
そして、七海は、
「千夏っ!!」
ただ感極まって、自分の娘の名を叫ぶばかりだった。
“壁”の外で、彼らが見たもの。
それは紛れもなく、何事もなかったかのようにしっかりと立つ、沢木千夏の姿であった。
千夏は、自分の偽物に対し、皮肉を込めてこう言った。
「ごめんね、沼の底じゃなくて」
もう存在するはずのない、自分と同じ姿を目の当たりにし、偽千夏はたじろぐ。
「そ、そんな……」
偽千夏に与えられた任務は、沼に落ちた千夏が確実に溺れ死ぬようにすることである。
そのためには、駆け付けてくる熊助が沼に飛び込んで千夏を救出するのを防ぐ必要があった。
自ら千夏に扮し、千夏は既に沼から上がり、ここにいると思わせたのも、それが目的だった。
そして、それは成功していたはずだった。
偽物は身震いしながら言う。「完全に上手くいっていた。なのに、なぜお前は生きている!?」
一方、千夏は彼女に対し、何ら容赦する気はない。
「あなたたちの計画は失敗よ。負けを認め、さっさとこの場から消えなさい」
しかし、偽千夏に「敗北」という言葉はありえない。それは即ち、己の消滅を意味するからだ。
確かに20年前、あの「千夏」は自ら消滅を選んだ。しかし、この泥人形は、そんな選択肢など持ち合わせていない。
ならば、彼女に与えられた選択肢は、一つしかない。
「くうっ!」
そして偽千夏は、自分に残された力の全てを右手に結集させた。目の前の本物を逆に消し去り、自分が強引に「本物」になり替わるために。
幸か不幸か、熊助が時間稼ぎしてくれたお陰で、ガス欠状態だった体力も呪力も、ある程度は戻っていた。
カグツチは、偽千夏の右手に集まる力を見て、動揺を隠せなかった。
「これは……!?」
ヒミコが、それに付け加えて言う。
「ええ、完全には回復していないようですが、それでも、普通なら人間一人くらいは即座に抹殺できるだけの力は戻っているようです」
しかしヒミコは、少し間を空けて、こう続けた。「あくまで、普通なら、ですが」
「えっ?」
「千夏さんをご覧なさい。あれほどの力を前にして、動じる様子が全くありません。
ここは千夏さんを信じて、私たちは黙って見守ってやるべき時です」
偽千夏の右手は、ありったけかき集められた力によって、ギラギラと光っていた。
そして彼女は、目標をにらみ付けながら、ボールを投げ付けるように右手を振りかぶった。
「食らえーっ!」
彼女の右手から、持てる力の全てが、千夏に向けて解き放たれた。
力は巨大な光の玉となり、一直線に千夏を襲う。
しかし千夏は、猛烈な力が近付いてきているにもかかわらず、直立姿勢のまま微動だにもしない。
全く無言で、迫り来る玉を、ただじっと見つめているだけだ。
光の玉の威力のほどは、“壁”の向こうにいるカグツチにも、如実に伝わっていた。
たまらずカグツチは、千夏に向かって叫んだ。
「千夏ちゃん、避けろ!」
一方、七海は両手で目を覆っていた。とても正視できる状況ではない。
そして、千夏と光の玉の距離が、5メートルにまで迫った時だった。
ザバーン!
何の前触れもなく、千夏の前に“滝”が出現した。
それも、水が上から下へと流れ落ちる滝ではない。よく見るとそれは、沼の水が下から上へと舞い上がっていく“滝”であった。
渚は「嘘っ!?」と叫び、その光景に目を見張った。
そして滝のような水の壁は、千夏にぶつかろうとしていた光の玉を、難なくはじき返した。
そればかりではない。
舞い上がった大量の水は一転、一斉に光の玉に襲いかかり、あっと言う間に玉を包み込んでしまう。
そして、玉は「シュウウウ……」と蒸気を発しながら、いともあっさりと消滅してしまった。
この間、千夏はピクリとも動こうとはしなかった。ただ、その場でじっと直立していただけである。
熊助は、そしてカグツチたちは、その千夏を、ただ黙って見つめていた。
彼女の姿は、まさに自信と確信に満ち溢れているように、彼らには感じられた。
千夏を倒すどころか、何のダメージも与えられなかったという現実を前に、偽千夏は呆然としていた。
「な、何で……!?」
彼女は、ただその場で立ち尽くしていた。彼女はその場を逃げることも、いや、そもそも身動きすることすら忘れてしまっていた。
確かにそれは「泥人形」本来の姿だと、いえるかも知れないが。
その泥人形に対し、遂に千夏は、最終宣告を下す。
千夏は、右手の人差指で敵をまっすぐに指差した。
何も言えず、ただ目を見開いたまま、閉じることも背けることも出来ない人形に対し、千夏は怒りの感情を込めて、この言葉を放った。
「我が友なる水よ……私になり済まし、皆を欺いた、この人形に裁きを!」
その瞬間、偽千夏は突然出現した巨大氷塊に包まれ、そのまま氷漬けにされた。悲鳴を上げる瞬間すらなかった。
そして千夏は氷塊を指差したまま、あたかも氷塊に命じるように、とどめの一言を発する。
「破砕!」
氷塊は、その千夏の言葉に従ったかの如く、閉じ込めた偽物ごと、ダイナマイトが爆発したようにバリーンと轟音を発して、四方八方に砕け散った。
遠くから千夏を見守っていた熊助が「うわあっ!?」と叫び、反射的に顔面を両腕でガードした。
“壁”に守られている七海たちと違い、自分は“流れ弾”に当たってしまう。熊助はそう直感したからだ。
しかし、破片は一つも、彼の体に当たることはなかった。
熊助は不思議に思い、自然と「えっ?」と声を漏らし、顔を上げた。
そして、熊助ははっきりと見た。
自分に向かって飛び散っていく破片は、どういう訳か、一つ残らず、自分を避けて通っており、いつまでたっても当たる様子はなかった。
よく見ると、千夏に向かって飛んでいた破片も、同様に千夏をかわしていた。
それはまるで、破片の一つ一つが、自分の意志によって二人をすり抜けていっているかのようであった。
やがて、辺りは静まり返る。
舞台の真中に立っているのは、千夏ただ一人。
彼女の偽物がいた辺りには、塵一つ残っていなかった。
七海は、声一つ発することが出来ずにいた。
そればかりか、自分の娘が無事だったのを喜ぶことも忘れてしまったかのようだった。
七海は、目の前で千夏が放った“力”の凄さに、ただただ圧倒されていたのである。
「参ったな」
カグツチは振り返って、ヒミコに語りかけた。「ヒミコの言う通りだった。俺は千夏ちゃんを、本当の意味で信じてやることが出来てなかったようだ」
しかし、その時カグツチは、ヒミコの様子がおかしいことに気付いた。「どうした、ヒミコ?」
「…………」
ヒミコにはカグツチの言葉が届いていないように、カグツチには思えた。
ヒミコは、“壁”の向こうにいる千夏から目を離すことが出来なかった。
また、僅かながら、プルプルと体が震えてもいた。
その様子は、ヒミコらしいとは到底言えるものではなかった。
カグツチは、更にヒミコに声をかける。
「おい、ヒミコ。おい!」
何度も声をかけられたことで、ようやくヒミコは我に返った。
「あ、はい」
「ヒミコが言った通り、千夏ちゃんは無事だったし、しかも、あの泥人形を一撃で粉砕したんだ。
もっと素直に、喜んでもいいんじゃないのか」
すると、ヒミコは戸惑った様子を見せて、言った。
「それは、確かにその通りなのですが」
そして、少し考えた上で、ヒミコはこの言葉を口にした。「まさか、カグツチは気付いていないのですか?」
「何がだ?」
「あれほどの呪法攻撃を行使したあとだというのに、千夏さんの内にある霊力が、全く減っていないことにです」
「えっ……?」
カグツチは振り返り、再び千夏の方を見やった。
カグツチはヒミコと違い、呪法がそれほど得意ではない。だから、言われるまで気が付かなかったのだ。
〈言われてみれば、確かに……〉
カグツチも知った。ヒミコの言う通り、千夏の霊力は全くと言っていいほど減っていなかった。
そして同時に、ヒミコの戸惑いの理由も理解できた。ヒミコやカグツチ、そして恐らくはアマテラスにとっても、それは自分たちの常識に明らかに反していた。
「どういう事だ?」
カグツチは尋ねる。しかし、ヒミコは首を振るばかりだった。
「分かりません」しかし、その後すぐ、ヒミコは言った。「いえ、本当は、分かりたくないのかも知れません」
「分かりたく、ない?」
この時カグツチは、実はヒミコは、内心では既に答えを得ていることを察した。
しかしカグツチは、それ以上、なぜかヒミコに突っ込むことが出来なかった。彼もまた、ヒミコの態度を見て、答えを得ることを恐れたのである。
一方、“壁”の内側では。
いつの間にか、それまで辺りを覆っていた霧は完全に消え去り、元の薄暗いだけの沼地に戻っていた。
「すげえじゃねえか、千夏!」
千夏の完勝劇を見届けた熊助は、すっかりクリアになった千夏の姿に感動を覚え、一目散に千夏の元へと駆け寄っていった。
氷の破片が避けていった、先ほどの不可思議現象のことなど、すっかり忘れてしまったようである。
そんな熊助を、千夏は両手を広げて温かく迎える――どころではなかった。
「ちょ、ちょっと! 熊助、待った!」
むしろ、千夏は慌てた様子で、自分のところまで来ないよう、大声で熊助を制した。
しかし、その声は熊助の耳には入らない。熊助は、走るのをやめなかった。
そして――熊助の足が、突然地面を離れて、宙に浮いた。
「えっ……?」と、熊助が異変を感じた、その直後。
ザブーン!
と、派手に水音を上げて、熊助は沼の中へズボンと落っこちてしまった。
もっとも、水泳は熊助の得意種目の一つである。不意を突かれたとはいえ、この程度で溺れるような彼ではない。
「わーっぷぷっ!」
すぐに熊助は、落っこちた沼の水面から首を突き出し、立ち泳ぎに入った。
泳ぎながら自分を見上げる熊助を、千夏は呆れ顔で見降ろし、そして彼に言った。
「もーっ! だから、待てって言ったでしょう。ここは沼なんだから」
「で、でもお前、そこに立ってるじゃ――」
そう言いかけて、熊助はようやく、千夏が「どこに立っているか」を思い知らされた。
それを知るや、熊助は「わああああっ!!」っと慌てふためき、今度は本気で溺れそうになった。
千夏は確かに、自分の足で立っていた。
かつて前世が身を投げた、沼の水面の上に直接。
まるで地面の上に立つように、千夏は余りにも普通に、水の上に立っていたのだ。
既に、霧は晴れていた。
それゆえ、今の千夏の姿は、“壁”の外側で二人を見守っている人たちにも、はっきりと見て取れる。
そして、カグツチとヒミコもまた、沼の上に立つ千夏を見て、最初は自分の目を疑った。
「何だとっ!?」
「こ、これは……」
このヒミコの反応は、カグツチには意外に思えた。カグツチは、半ば反射的に声をかける。
「って、ヒミコも、見えてなかったのか?」
すると、ヒミコ曰く。
「千夏さんがそこにいるのは分かっていました。しかし、その足元は霧に隠れていて、こちらからは見えませんでした。
ですから、てっきり船でも浮かべて、その上に立っているのかと……」
渚と綾香も、水面にいる千夏を見て、仰天した。
「どういう事!?」
「幽霊……ってことはないわよね。ちゃんと、足は付いてるし」
そして、肝心の七海はというと、依然として無言のまま立ち尽くしている。
とにかく、目の前で起こる事全てが信じられない様子で、今はただ、娘の無事を認識するのが精一杯だった。
さて、沼の方に目を戻そう。
慌てふためく熊助に対し、千夏は水の上から、事もなげに言った。
「そんなに不思議? だって私、水と友達だもの」
これに対し、ようやく立ち泳ぎ状態に戻った熊助が言い返す。
「い、いや、友達とか、そういう問題じゃねえだろうが!」
実にごもっとも。別に空と友達だからって、空を自由に飛べるわけじゃない。
「……ちょっと待て」
熊助は千夏を見て、更におかしな事に気が付いた。「お前、さっきまで水中にいたんだよな?」
「そうだけど、それが何?」
「いや、だってお前、全然濡れてないし」
熊助からは霧に隠れて見えなかったが、千夏が現れたのは、明らかに沼の中からである。
しかも先ほど、千夏を光の玉から守った“滝”のしぶきを、千夏自身も全身にかぶったはずだ。
それにもかかわらず、千夏の体や衣服は、全く濡れていなかった。
千夏は答えた、あっさりと。
「だって、水と友達だもの」
「それで済ますか!?」
熊助は全く納得していない様子だが、千夏としては、いつまでも彼に構っているわけにはいかない。
「それはさておき」
そう言って千夏は、“壁”の向こう側にいる自分の母親に目を向けた。「この通り、私は無事よ、ママ」
「…………」
しかし、声をかけられた七海は、未だに心ここにあらずといった様子で、呆然としたままであった。
「……ママ?」
心配そうに、千夏は再度呼びかけるが、やっぱり七海からは反応がない。
「はあっ、しょうがないわね」
たまりかねた渚が、七海の背後に来た。
そして、「せーの」と自らに気合を入れ、七海の背中を思いっきりぶっ叩いた。
バシーン!という音が辺りに響き、直後、「キャアッ!?」と、七海は可愛い悲鳴を上げる。
七海はとっさに振り向き、渚に文句を言った。
「……って、渚先輩、いきなり何するんですかあっ!」
すると渚はこう言って、先輩として七海を諭した。
「あんた、母親でしょ。娘が見てるんだから、もっとしっかりしなさい!」
「あ……」
渚の叱咤を受け、七海もやっと自分を取り戻したようだ。
七海は、改めて“壁”のそばまで近付き、“壁”越しに自分の娘の姿を食い入るように見つめる。
「千夏……」
千夏もまた、ようやく落ち着きを取り戻した母親に対し、笑顔で答えた。
「うん。私は無事よ、ママ」
しかし、千夏がこの直後、この言葉を続けることを、どれだけの人が予測できたであろうか。
「そして……やっと会えたね、七海ちゃん」
「え……?」
七海の顔から、再び笑みが消えた。
「千夏……お前、まさか」
依然として沼の中にいる熊助も、不安げな表情で千夏を見上げる。
“壁”の内と外が静寂に包まれた。誰からも、言葉が出ない。
しかし、この状況に一番戸惑っていたのは、実は当の千夏だった。千夏は一瞬慌てた素振りを見せてから、七海と熊助に語りかけた。
「ああ、ママも熊助も心配しないで。私は正真正銘、『沢木千夏』だから」
しかし千夏にとって、この事を言わないわけにはいかない。千夏は再び七海に視線を送り、こう続けた。「でもね、七海ちゃん、同時に私は、20年前にここで死んだ『桐山千夏』なの」
本当なら、ここで千夏は、上の言葉の意味をきちんと説明すべき時なのだろう。
しかしその前に、彼女には、ここで確かめておくべき事が一つあった。
千夏は七海に、続けてこう言った。
「えーと……今の私は、まずそっちの説明をママにする方が先だと思うんだけど、なんか、前世の私の方が、七海ちゃんたちにこれを伝える方が先だって言うもんだから」
しかし七海には、娘の言うことがよく分からない。
そのため、一言「はあ」と相づちを打つことぐらいしか出来なかった。
綾香と渚も、そんな千夏を見て、
「まあ、何となく」
「分かるよう気はするけどね」
そう言って、ため息をつくばかりである。
そんな中、突然ヒミコは右手を挙げて、沼に立つ千夏に言った。
「済みません、私に質問させて下さい」
それを見てカグツチ、思わず一言漏らす。
「ヒミコ、学校で生徒が先生に尋ねるんじゃないんだから」
一方、聞かれた千夏は、逆にヒミコに尋ねた。
「ヒミコさん、それはどちらの“私”にですか?」
ヒミコは間髪を入れずに答えた。
「桐山千夏さんにです」しかし、すぐにヒミコはこう付け加えた。「いえ、正確には、桐山千夏と称する存在に、でしょうか」
横で聞いていたカグツチが、ヒミコに言った。
「千夏ちゃんを信じてるんじゃなかったのか」
これに対し、ヒミコはきっぱりと答えた。
「信じています。本物であれば、ですが」
「まさか、彼女も偽物だと?」
「先ほどの泥人形のこともあります。まだ、あれが本物の前世かは断定できません」
先ほどの偽物には、ヒミコも危うく引っかかるところだった。
そのため、ヒミコも判断を下すことに慎重になっていたのだ。
もちろん、目の前の沢木千夏が紛れもなく本人であることは、ヒミコなら魂を見れば分かる。それに、桐山千夏が実は消滅していないという点についても、ヒミコは確信があった。
しかし、沢木千夏の中にいるという「前世」がその本物かどうかは、先ほどの件もあって、ヒミコはどうしても信じ切れないでいた。
千夏は、苦笑いを浮かべて、ヒミコに答えた。
「言いたい事は分かります。さすがは、今の千夏の師匠ですね」
一方、母親組は、ヒミコとは逆の疑念を捨て切れなかった。
彼女たちは思う。目の前の「桐山千夏」は本物だろうし、何より、そう信じたい。
でも、20年前、桐山千夏が自ら消滅したのも、自分たちは目の当たりにしている。
実は消滅していなかったと、さっきの泥人形は言っていたが、所詮は偽者の台詞。信用は出来ない。
それぞれの思いを抱く“壁”の向こうにいる人々に向かって、千夏は言った。
「皆さんが信じられないのは当然です。あいつのせいで、皆さん、特に七海ちゃんは、桐山千夏という存在は20年前に消滅したと思い込まされてますから」
これを聞いて、七海が叫んだ。
「それって!?」
「そういうこと。さっきの人形の言葉、半分は本当なの。悔しいけどね」
ここで、いつの間にか岸に上がっていたずぶ濡れの熊助が、千夏に問いかける。
「待て、千夏」
「何、熊助?」
「さっき『あいつ』って言ったな。誰だ、そいつは?」
その一言は、千夏が意図的に発したもの。誰かがうまく気付いてくれたことで、千夏は内心ほっとしていた。
千夏は「ふっ」と笑ってから、
「ええ、今教えてあげる」
そう言うと千夏は目をつむり、右手の人差し指の先を額に当てた。そして、
〈技を借りるね、今の私〉
と、心の中でつぶやき、指先に念を込めた。
やがて、千夏の目の前に、5本の「氷のダーツ」が浮かび上がる。
出雲町に来る前、涼子の前で披露した、あの技だ。
「それはね……」
千夏はそう言いながら、自分の右側にある「標的」を、横目でちらりと見た。
そして、千夏はカッと目を見開くと、体を素早く右に向けた。
「こいつよっ!!」
千夏は声を上げると同時に右手をピンと真っ直ぐに伸ばし、自分から見て沼の右側、七海やヒミコたちから見て左側の岸辺にある草むらを指差した。
その号令と共に、5本のダーツが草むらへ一斉に放たれる。ダーツは一直線に、草むらに隠れている目標に向かって襲いかかった。
しかし、そのダーツは全て、そこに透明な板でもあったかのように、草むらの手前で全てはね返され、ただの氷としてバラバラに散ってしまった。
ダーツの直撃を受け、草むらから「グアッ!」と悲鳴が上がる光景を想定していた千夏にとって、これは予想外の展開だった。
逆に千夏の方が、思わず「えっ!?」と声を漏らす。
しかし、千夏の攻撃を防がれたということは、そこに攻撃を防いだ何かが潜んでいるということ。
“壁”の外側からそれを見た人たちにとっては、それで充分だった。
皆を代表するように、ヒミコが草むらに向かって、叫ぶように問いかける。
「誰です、そこにいるのは!?」
実はこの時、ヒミコは内心戸惑っていた。
千夏の姿が霧の中に隠れていた時は、ヒミコは彼女の気を感知することで、その存在を皆が気付く前から見抜いていた。
しかし、そのヒミコでさえ、目の前の草むらに何者かが潜んでいたことに全く気付いていなかったのだ。
当然、熊助やカグツチ、七海たち、また、白虎やタギリも分かっていなかった。
それにもかかわらず、なぜ千夏だけが知っていたのか。
しかし、その理由はすぐに明らかになる。
やがて一人の男が、草むらの中からバサバサと音を立てながら、ゆっくりと立ち上がった。
「へっ、よく分かったな」
それに対して、千夏は沼の上から答える。
「たまたまよ。霧を張った時に、あんたがそこにいることを、水が教えてくれたの」
「水が、か……。なるほど、そりゃ気配を消してても意味なかったな」
姿を現したのは、ハードロッカーをイメージさせる、革製の黒いジャンパーとズボンを着た長髪の男だった。ただ、若くは見えない。外見は20代後半から30代といったところか。
しかし、その外見以上に彼を特徴付けているのが、その目である。
蛇を思わせるような、ねっとりとした、いやらしい目付き。これこそが、彼の本質を如実に表していた。
彼の姿を見た綾香と渚が、揃って声を上げた。
「あなたは!?」
「あの時の!?」
二人だけではない。20年以上前、カグツチと戦いを共にした人たちは皆、その派手な服装と不気味な目に見覚えがあった。
彼は紛れもなく、玄武の城で綾香を苦しめた、あの憎むべき悪霊だった。そして、
「貴様……どうしてここに!?」
苦々しく言ったカグツチが、仲間と共に倒したはずの――。
その男はカグツチに目を向けると、にやついた表情で言葉を返した。
「久しぶりだな、塔馬ヒカル……いや、今はカグツチだったな」
彼の名はサトリ。
スサノオとツクヨミが、共にヨモツオオカミの部下として人間に敵対していた頃、そのツクヨミの「右腕」と呼ばれていた男である。
※ 「スサノオの部下」を上記の通り修正。スサノオとツクヨミは共にヨモツオオカミ直属の部下で、二人は同格です。(2010-11-14)