横浜からやって来た、沢木(水瀬)七海の娘・千夏は、実は――非処女だった(笑)。
千夏の「はじめて」は2年前。相手は、「クマ」のあだ名を持つ学ラン姿の風来坊・熊助(ゆうすけ)。
会った途端に一目惚れされ、千夏も当初は熊助を迷惑がっていたが、根が明るく裏表のない「自分とは正反対な」熊助にやがて千夏も惚れ、つい一夜を共にしてしまったのだ。
しかし、それから数日後、不良集団にボコられていた熊助を、発見した千夏が呪法の一撃で助けるという事件が起こった。
惚れた女を守るはずが、逆に助けられてしまった自分に情けなさを感じた熊助は、
「千夏に勝てるぐらいに強くなって、帰ってくる」
と言い残して、再び旅に出てしまう。
千夏と熊助は、それっきり会っていない。
で、その熊助。
実は力を付けて、先日、横浜に戻ってきたのだが、ちょうど千夏と行き違いになったことを永峰涼子(←分かりますね?)に知らされた熊助は、千夏を追って出雲町へと向かった。
「あそこにだけは、行きたくなかったんだよな……」
という、意味深な台詞を残して。
出雲学園ではヒミコが、千夏に訓練(専ら精神的鍛錬)を施す一方で、千夏の持つ力の正体を見極めようと、千夏をずっと観察していた。
そしてヒミコは、千夏が呪法を行使し続けている間も、彼女の霊力がほとんど変化していないことに気付き、疑念を抱く。
そんな中、熊助は千夏と再会し、そして千夏に対し、1対1の真剣勝負を挑む。
遥かに強くなっていた熊助の姿に一瞬戸惑った千夏だったが、結局は熊助の惨敗。
このまま引き下がれない熊助は、自分も出雲町に残って更に強くなると宣言。1年前、旅先の福岡で契約した精霊タギリを相手に、実戦さながらの修練を積む。
そんな熊助の様子を見て、千夏はため息をつく。
「何をそんなにこだわってるのよ、あの馬鹿……」
そして、そんな二人を陰から眺めてにやりと笑う、謎の男の影。
「とんだおまけまで引き寄せちまったが、まあ、大勢に影響はあるまい」
それから1週間後、一つの事件が起こる。
ヒミコたちがいつものバトルを終えたあとの帰り道で、夜の街をまるで夢遊病者のようにふらふらと歩く千夏を発見する。
そのまま千夏のあとを付けていくヒミコたち。やがて千夏は、中学校の裏山にある沼に着く。
そして、そのまま沼の中に入っていこうとした千夏を、ヒミコは慌てて止めた。
我に返った千夏は、半ば無意識のうちに、心の中に響く声に導かれるまま、ここまで来てしまったと打ち明ける。
翌日、その事をヒミコから伝えられた七海はがく然とする。
その沼は、昔、七海の親友だった桐山千夏が入水自殺した場所だったからだ。
着実に表れる訓練の成果とは裏腹に、得体の知れぬ「自分の正体」におびえる千夏。
そんな千夏を救えるのは自分しかいないと信じ、更なる強さを求める熊助。
そして、千夏を救うためには全てを解き明かすしかないとの結論に至る、ヒミコ。
それぞれの思いが交錯する中、いよいよ物語は結末へ――。
“ねえ……聞こえる?”
また、あの声だ。
この出雲町にやって来てからというもの、夢の中で、幾度となく私に呼びかけ続けている、女の子の声。
そして――この間、私を沼へといざなった、忌むべき声。
“お願い……聞こえてるんなら、返事をして”
聞こえない。
私には、何も聞こえない。
私は、懸命に「心の耳」を塞ぐ。
“聞こえてるんでしょう?……どうして、答えてくれないの?”
答えるもんですか。
今度こそ、私を殺すつもりなんでしょ。
“良かった。……ちゃんと、聞こえてたんだ”
……しまった。つい言葉を返してしまった。
“お願い。私を助けて……”
知るもんですか。他を当たりなさいよ。
“あなたしか頼れないの。私には、あなたが必要なの”
あんた、どこの亡者?
ヒミコさんが言ってた。成仏できない魂の中には、生きている人を死なせて、その体を乗っ取ろうとするものもいるって。
“違う。私は、そんなつもりじゃない”
つもりじゃなくても、結果的にそうなるって言ってんの。
“大丈夫。……沼に入っても……底に沈んでも……あなたは死なない”
何を根拠に。
“だって……あなたは、水と友達”
何よ、その屁理屈。
“本当よ。沼に入ってみれば、分かるわ”
入って、実は違いましたって分かっても手遅れなの。
“お願い……。私は、あなたにしか頼れない。あなたしか、私を助けられない”
またその台詞? さっきから私、私って。
あんた、私の一体何なの?
“私は……”
「私は」?
“私は……あなただから……”
えっ?
……今、何て?
“私は……”
しかし、その言葉を最後に、声は私から遠ざかっていった。
ちょっと!? それって、どういう意味!?
返事しなさいよ!
そして――。
「千夏ちゃん、朝よーっ」
綾香さんの声で、私は目を覚ました。
その日、先に教室に着いていた千夏は、ヒミコが教室に入ってくるや否や、すぐに立ち上がるとヒミコの元に駆け寄り、彼女を廊下へと連れ出した。
そして、昨晩見たばかりの夢の内容を、早速ヒミコに話して聞かせた。
「『私は、あなた……』ですか?」
「はい」
この言葉をありのまま受け取るなら、それは「声の主」が他ならぬ千夏自身だということだろう。
桐山千夏が件(くだん)の沼で自殺したことを、桐山の友人だった七海から聞かされた時、ヒミコも、ある可能性の存在に気が付いてはいた。
――もし、沢木千夏が桐山千夏の転生体だとしたら。
「しかし、桐山さんの魂は、カグツチたちに敗れて消滅したのではありませんでしたか?」
そう。それがカグツチ(ヒカル)と七海たちが20年前に経験した、悲しい戦いの結末。
入水自殺の翌年、悪霊サトリによって恨みと復讐の権化に仕立てられた桐山千夏の魂は、戦いに敗れたあと、七海の腕の中で自らの誤りを悟り、自ら消滅する道を選んでしまったのだ。
この事実をヒミコは七海から聞かされ、また、カグツチや(宝貝を通じて)アマテラスに確認し、ヒミコは、その可能性を自ら否定した。
なぜなら、魂本体が消滅してしまった以上、アシハラノクニであれネノクニであれ、もはや別の人間として転生することなどありえないのだから。
しかし、千夏は納得しない。
「でも、そうとでも解釈しなければ、あの言葉の意味が――」
「それは、そうなのですが……」
実はこの時、ヒミコは「もう一つの可能性」の存在に思い至っていたが、根拠に乏しいため、それを口にするのは控えた。
そして、遂にヒミコは決断する。
しなくて済むのなら、しない方がいいのは分かっている。それは、余りにもプライバシーに深入りする行為だから。
しかし、もうそのようにちゅうちょしている場合ではない。事は既に、千夏の生命の危機にまで及んでいるのだ。
「――試してみますか?」
「何を、ですか?」
「私(わたくし)が、あなたの前世に直接問いただします。あなたは、一体何者かと」
昼休み。
校舎の屋上には、千夏も含めて、いつものメンバーが集結した。
更にもう一人、ヒミコの呼び出しを受けて、カグツチも「洞窟での対桐山千夏戦」の当事者の代表として、この場に来ている(カグツチはここのOBであり、一応「創立者の親族」なので、六介の口利きで、学園内へは出入り自由ということにしてもらっている)。
「本当は七海さんが一番良いのですが、いきなり横浜から呼び出すというのも、いかがかと思いますし」
「ママ(渚)は大阪だから、もっと遠いしね」
「お母さん(綾香)は、この時間は寝てるし」
「美由紀は、あの時点ではパーティーにいなかったからな」
以上、ヒミコ・汀・琴乃・カグツチによる解説でした(笑)。
さて、一同が銘々の昼食を手っ取り早く済ませたあと。
「それでは、始めましょうか」
「はい」
先に立ち上がったヒミコに誘導され、千夏も立つ。そして、二人は皆の真ん中へと移動した。
他はギャラリーとして、二人を囲み、様子を見守る。
「“帰った”途端、いきなり『クワァ』ってことはないだろうな」
猛よ、さすがにそれはないぞ。鈴木じゃあるまいし。
「お、お兄ちゃん……」
ほら、明日香も呆れてる。
「心配することはありません。目を閉じて、気を楽にして下さい」
「あ、はい」
千夏が目を閉じたのを確認すると、ヒミコは、右手をそっと千夏の額に置いた。
「それでは、千夏さんの前世の記憶を、呼び出します」
「…………」
千夏は無言でうなずいた。
ヒミコの手から放たれた気が、千夏の体を包み込む。
「……これで、千夏さんの意識は前世へと戻りました」
「えっ、もう!?」
「さすがだわ」
ヒミコの言葉に、芹はびっくりし、麻衣は素直に感心する。
「……それでは、あなたにお聞きします。あなたは誰ですか?」
一呼吸置いてから、ヒミコは千夏に、いきなり核心を突く質問をかけた。
それに対する答えは、ある意味予想通りだった。しかし――当事者にとっては――とても納得のいくものではないだろう。
「私は……千夏。……桐山、千夏」
「桐山」千夏の言葉に、カグツチは思わず叫んだ。
「『桐山』って……そんな馬鹿なっ!?」
「静かに」と、ヒミコがたしなめる。
「う……済まない」
そして、ヒミコは質問を続けた。
「桐山さんにお尋ねします。水瀬七海さんのことは、覚えていますか?」
無言で様子を見守るギャラリー。
しかし、千夏の回答は――。
「……分かりません」
「えっ……?」と、カグツチ。
ヒミコが改めて千夏に尋ねる。
「あなたの中学生時代のご友人と、お伺いしましたが?」
「中学生……ですか?」
「では、質問を変えましょう。あなたが通っていた小学校の名前を教えて下さい」
すると千夏は、「○○小学校です」と、はっきりと答えた。
「えーと、明日香さん?」と、ヒミコは振り向いて確認を求めた。
「この街の外れにある小学校だよ。学区が違うから、あたしやお兄ちゃんは通ってないけど」
「では、その小学校時代のクラスメートを、何人か挙げてもらえますか?」
すると千夏は、10人ほどの名前をよどみなく答えた。
「では、あなたの通っていた中学校の名前は何ですか?」
しかし、中学校の話になると、千夏は首を振りながら、
「……××中学校……だったと思います」と、自信なさそうな態度を取る。
「その頃のクラスメートを、何人か覚えていますか?」
しかし千夏は、無言で首を振るばかり。
ここでヒミコは、わざとこんな質問をした。
「それでは千夏さん、あなたが通っていた高校の名前は?」
すると千夏ははっきりと答えた。
「高校には通っていません。その前に……そう、その前に死んでしまいましたから」
「『死んだ』というと、事故でですか? それとも、病気でですか?」
しかし、「桐山千夏」は首を振る。
「……覚えていません」
その後もヒミコの質問は続いたが、結局「桐山」は、小学生以前の事はしっかり覚えていたにもかかわらず、中学生時代の事になると、ほとんど答えることが出来なかった。
「どういうことだ?」
同席したカグツチが首をひねった。
「それに答える前に、千夏さんを元に戻します」
ヒミコはそう言うと、千夏の額の上に手を置き、何事か呪文をつぶやいた。千夏は目を閉じ、静かにそれを受け入れる。
やがて、千夏は再び目を開き、目の前のヒミコの顔を見上げた。
「……ヒミコさん」
「沢木、千夏さんですね?」
「はい」
「千夏さん、あなたは――」
すると、千夏はヒミコの言葉を遮るように、こう言った。
「分かっています。……私にも、彼女の言葉は聞こえていましたから」
「ヒミコさん、やはり私は……」
千夏がおびえたような口調で聞くと、ヒミコはこう答えた。
「まだ、結論を出すのは早いと思います。
私が考えるに、二つの可能性があります。
一つは、千夏さんが本当に桐山千夏の転生だというもの。しかし、その場合――」
カグツチが言葉を繋ぐ。
「あの時、俺たちの目の前で千夏ちゃ……いや、桐山千夏ちゃんが消滅した事実と矛盾する」
「そういうことです」
ここで、琴乃がある疑問を口にした。
「あの、ヒミコさん? もし仮に、実は消滅を免れていたとして、その魂はヨモツヒラサカへ行って、浄化されるんですよね?」
そう。ヨモツヒラサカへ送られた魂は、浄化されて記憶を消去される。かつて、琴乃がそうされかけたように。だからこその疑問だ。
「確かに表面的には消去されますが、その記憶の痕跡は、魂自身が消滅しない限り永久に残ります。私の術は、その痕跡を呼び覚まして、前世の記憶を復元するものと考えて下さい」
「まるでハードディスクね」と、麻衣が呼応する。
続いて、芹がヒミコに聞いた。
「一つは本当に転生で……もう一つは?」
「そう思わせるために、誰かが千夏さんに『桐山さんの記憶』を意図的に植え付けたか、です」
これには、剛が反応した。
「そんなことが可能なのか?」
「もちろん、偽りの記憶を長期にわたって維持させることは、私でも出来ません。しかし、短期間、1カ月程度であれば、それなりの術者であれば不可能とはいえないでしょう。ただ……」
「ただ?」と明日香。
「そうなると、桐山さんが最も苦しんだ時期であるはずの、中学生時代の記憶が欠落しているのが不可解です」
猛が同意して言う。
「そうか。嘘の記憶で千夏ちゃんを苦しめるのが目的なら、その一番肝心な部分こそ真っ先に植え付けるはずだからな」
「その通りです」
ヒミコの説明が終わったあと、その場を重苦しい沈黙が支配した。
千夏が、本当に桐山千夏の転生なのかどうか、結論は出なかった。
ただ、どちらであるにせよ、この先、千夏が何をなすべきかは、この場にいた誰もが気付いていた。
しかし、誰もそのことを口に出せずにいた。なぜなら、それは千夏にとって、余りにも危険なことだから。
そのことを一番よく分かっていたのは、おそらくヒミコだろう。
しかし、ヒミコは同時に、千夏が己の力を真に自分のものとするためには、これは避けて通れない試練であることも理解していた。
そして、その試練を乗り越えなければ、千夏の命すら危うくなるということを。
そして、ヒミコは無言で視線を上げる。その先にいたのは、汀だった。
ヒミコの視線に気付いた汀もまた、よく分かっていた。
要は、以前、汀が自分の体験から千夏に語った事と同じようなことだ。
千夏が本当に桐山の転生だとしたら、その事実を、千夏は受け入れなければならないということを。
そして、それこそが、千夏が「力を持った自分」をありのまま受け入れること――それが、千夏が己の力に打ち勝つ、最善の道――に繋がるということを。
しかし、千夏は未だ、その境地に達していない。
出雲町に来たばかりの頃に比べれば、千夏はかなり、力を制御できるようになってきている。少なくとも、以前のように力が暴走することはなくなったと言っていい。
しかし、それでも時折、千夏が力を制御し切れず、振り回されてしまう場面が見受けられる。
そして、それは千夏が、「力を持った自分」を全面的に受け入れることに、未だ心のどこかでためらっているのが原因であることを、ヒミコと汀は見抜いていた。
結局、汀は自ら“貧乏くじ”を買って出た。ヒミコに、語るべき事を語るよう促すために。
「それで、ヒミコさん、結局千夏ちゃんは、どうすればいいの?」
千夏が、ゴクリと唾を飲み込む。
本当は、千夏自身も分かっている事。しかし、誰かに背中を押して欲しかったのも事実だ。
そして、汀に促されたヒミコは、静かに、しかししっかりと、千夏にこう言った。
「無理強いはしません。あくまで、千夏さんが自分の意思で判断する事です。
ただ、私としては、今一度、自らあの沼に行くことをお勧めします」
ヒミコが千夏に、決断を促す発言をした直後、昼休みの終了を告げるチャイムが鳴った。
何とも中途半端な状況ではあったが、まさか授業をサボるわけにもいかない。一同は渋々立ち上がり、屋上の出入口へと向かった。
さて、そんなことが出雲学園で起こっていたのも知らず、ただ「千夏に勝つ」ことだけを目指してこの出雲町に残った、あの「クマ」は――。
――と言いたいところだが、物語の都合により、ここで話を三日前まで遡らせて頂く。
時は昼。場所は、例の公園。
「はあ……はあ……」
いかにもつらそうに肩で息をする、学ラン姿の熊助(ゆうすけ)。それでも、得物の三節棍を両手でしっかりと握り締め、決して手放さそうとしないのは、さすがというか意地っ張りというか。
「熊助様、今日はもうこのぐらいにした方が――」
ずっと修練に付き合ってきたタギリも、さすがに熊助のことが心配になってきたようだ。
「はは……駄目っすよ、タギリさん」
作り笑いを浮かべる熊助。「千夏だって頑張ってるんだ。俺も……あの技を思い出して、先に進まないとな」
「はあ……」
熊助は、内心焦っていた。
ここ数日、熊助は自分の修練の合間を見て、千夏の訓練の様子を陰からのぞいていたが、あの再会直後の勝負の時から比べても、千夏の呪法の上達は明らかだった。
〈このままじゃ、いつまでたっても千夏に追い付けない〉
しかし、それでも熊助には、まだ望みがあった。
〈あの時、先生から伝授された『奥義』。あれさえ思い出すことが出来れば……〉
「分かりました。熊助様が気の済むまで、最後まで付き合います」
「ああ、頼むぜ」
熊助は気合いを入れ直し、先端に錘状の槍頭を装着した長棍――というより槍を再び構えた。
「では、行きますよ」
タギリが、右手を空に向かって差し上げた。
「さあ、来い!」
攻撃に備え、熊助は気合いを入れる。
やがて、二人の立ち位置のほぼ中央に、黄色い光を放つ、人間の背丈ほどの大きさをした楕円体の物体が姿を現す。表面からバチバチと火花を飛ばすそれは、タギリが金属性の呪法によって生み出した霊気体である。
「はいっ!」
タギリが右手を振り下ろし、腕を真っ直ぐにしたまま、手の先を熊助に向けた。
その直後、黄色い物体は音もなく動き出し、熊助に体当たりするかのように一直線に襲いかかる。
「はああっ!」
熊助は槍を握る両こぶしに力を込め、向かってくる物体に相対する。
そして、物体が熊助の目の前までやって来た瞬間――。
「でやああああああっ!!」
熊助は、目にも留まらぬ速さで、槍を物体に向けて何度も突き出し続けた。
熊助の連続攻撃を受け、バチバチと音を立てる光の塊の動きが鈍った。
しかし、物体はそれでも、熊助に向かってジリジリと歩を進める。
「ぬおおおおおっ!」
熊助もまた、それに負けじと、槍の連続攻撃の速度を上げる。
しかし、熊助が物体の「押し」に対抗できたのは、またしても1分ほどだった。
ゆっくりと歩を進めてきた光の塊は、遂に熊助に到達し、そのまま熊助の体を呑み込んでしまった。
「ぐあああああっ!!」
全身に雷撃を浴びせられた熊助の叫び声が、その場に響く。
事前にタギリが結界を張っていなかったら、何事かと大騒ぎになっているだろう。
そして、勝負が付いて満足したかの如く、光の塊は破裂するように四方へと飛び散り、姿を消した。
あとに残されたのは、全身からすす煙を発し、立っているのがやっとの熊助の姿だけ。
それでも槍を地面に落とさないのは、熊助のせめてもの意地だった。ほとんど弁慶の立往生である。
「熊助様!」
やがて、その場でペタリと座り込んでしまった熊助に向かって、タギリは早足で駆け寄る。
そして、目の前まで来たタギリに対し、熊助は一言、ポツリとつぶやいた。
「……違う」
「……熊助様?」
「あの日、“俺”が先生から学んだ『千手羅漢(せんじゅらかん)』の力は、こんなもんじゃない……。こんなもんじゃねえ!
そうっすよ。そうっすよねえ! タギリさん!」
「…………」
タギリは、何も答えられなかった。
明治時代の横浜で、縁あって警視庁特別版と行動を共にすることになった、宗像三女神(むなかた さんじょしん)。
その一柱で、山田虎之助と契約を結んだ長女タギリは、虎之助が繰り出す奥義「千手羅漢」の威力を、何度も目の当たりにしてきた。だから、熊助の言葉に、自分も同意せざるを得ない。
先ほどの熊助の技。形だけは似ているが、それでもその威力は、本当の千手羅漢の1割にも達していないだろう。
タギリも、そのことを分かっていた。
分かっていたから――悩む熊助を、ただ無言のまま、両手で抱き締めてあげることしか出来なかった。
その時だった。
突然、熊助の背後に現れた、一人の影。
「当たり前じゃ。お前さんの技は、千手羅漢とは似ても似つかぬ。ただ、闇雲に槍を突き出しているだけじゃ」
その声に驚き、顔を上げて後ろを振り向く熊助。
「爺さん……」
そこには、熊助が出雲町に来てから、何度も顔を合わせた老人――塔馬六介の姿があった。
「どれ、貸してみい」
六介はそう言うと、熊助の手から槍を、半ば強引に取り上げた。
「あ……」
呆気に取られた熊助は、あっさりと六介に槍を渡す。
「タギリさん、じゃったな。さっきの技、ちと、わしにもかけてもらえんかのう」
「えっ……?」
熊助とタギリは同時に声を上げた。
「いいのかよ、爺さん? あんなの、まともに食らったら、まじで命に――」
「その技を何度も食らっとるお前が、ピンピンしとるではないか。心配は無用じゃよ」
それだけ言うと六介は、二人から離れて歩き出した。そして、程よい距離を取ったところで立ち止まって振り返り、タギリに向かって槍を構えた。
「さあ、遠慮は要らんぞ」
「……分かりました」
六介が本気であるのを見て取り、タギリは意を決した。
熊助と六介の二人は、熊助が千夏に敗れた直後に六介と顔を合わせて以来、何度となく会っている。そして、そのたびに六介は、熊助に対し本質を突いた直言をしてきた。
しかし、六介が熊助に対し、自ら手本を見せるというのは、これが初めてのことだった。
「よし。見せてもらうぜ、爺さん!」
熊助も、二人が視界に入る位置に移動した。三人が、正三角形を描くように、それぞれ頂点の位置に立つ。
思えば熊助も、六介と出会った時、いや、出雲町に足を踏み入れた時に、覚悟だけはしていた。
いずれは、その時が来ることを。
そして、熊助は悟った。
その時が、今やって来たことを。
〈見せてもらうっすよ……先生!〉
「では……参ります」
タギリが右手を高く上げ、天を指差した。数秒後、先ほど熊助を打ち負かしたのと同じ光の塊が、バチバチと火花を飛ばしながら出現する。
「ふむっ!」
六介は槍を構え直し、丹田に力を込める。
「ハアッ!」
右手を振り下ろすタギリ。その直後、塊が獲物を見付けた野獣のように六介を襲う。
「でやあああああああっ!!」
目前に迫ってきた“敵”を、六介は、電光石火の如き槍の連撃で迎え撃った。
“敵”の動きが、相手の攻撃を受けてピタリと止まる。
〈これが……っ!〉
六介の攻撃に、熊助は目を見張る。
攻撃のスピードは、熊助とさほど変わりない。いやむしろ、熊助の方が僅かに上か。
しかし、槍一突きごとの攻撃力がまるで違うことが、遠目にも分かる。
槍を突き続けているにもかかわらず、六介の腰から下は、地面に深く突き刺した鉄筋の如く微動だにしていない。
そのしっかりした基礎に載せて、六介の全身から生み出される力は、そのままストレートに槍へと伝えられ、光の塊を突き続けている。
「はあああああああっ!!」
いつしか、光の塊の方が、六介の攻撃に耐え切れず、後ろへと押し返されていた。
「やああああっ!!」
そして、気合いと共に放たれた、六介のこん身の突き。
その突きをまともに食らった光の塊は――ゴム風船のように「パンッ!」とはじけ、そのまま消し飛んでしまった。
「見事っ!」
全てを見届けたタギリが、思わず叫ぶ。
「……ふっ」
やっと終わったかとばかりに、構えを解く六介。あれほどの攻撃の直後だというのに、全く息に乱れがない。
熊助は、六介の元に歩み寄り、真っ正直に称賛する。
――全てお見通しだったと言わんばかりに。
「全く力が衰えていないなんて、さすがっすね――桐谷先生」
そう呼ばれた六介もまた、全て承知の上とでも言うように答えた。
――そう、100年以上前の、あの口調で。
「見かけほど、歳を取ってはおらんよ――虎之助君」
熊助は、山田虎之助である。
正確には、熊助は、山田虎之助の転生である。
厳密に言えば、熊助は、山田虎之助の転生の転生である(笑)。
つまり、虎之助が死んでネノクニに転生し、その転生が死んで再びアシハラノクニに転生した姿こそが、今の熊助なのである。
「やっぱり、最初から分かってたんっすね、桐谷先生も」
地べたの上にあぐらを組んで座っている熊助が、同様に座っている対面の六介に話しかけた。タギリは、二人のそばで横座りをして、黙って様子を見守る。
「分かるも何も、今の君は、初めて出会った頃の虎之助君と瓜二つだからな。
そして何より、虎之助君から感じられたのと同じ気が、君からも感じられた」
六介――いや、「桐谷五郎」はそう答えた。
姿形こそ六介のままだが、熊助に話しかけるその口調は、完全に明治時代の、桐谷だった頃に戻っていた。
「さすが、伝説のイザナギ様ってとこっすね、先生!」
「…………!」
思いも寄らぬ台詞を聞かされ、六介は絶句した。
「どうやら、当たりだったみたいっすね。失礼を承知で、鎌をかけてみただけだったんすけど」
してやったりといった風情で、熊助はニヤリと笑った。
「……どこまで、知ってるんだ?」
「イザナギとイザナミの話は、ネノクニにいた頃に聞きました。
元々、虎之助だった頃から、桐谷先生がただの人間ではないとは思ってたっすけど、イザナギが不老不死の呪いを受けて、今なおアシハラノクニに封じられていると聞いた時、なぜか俺の中で、イザナギと先生がすぐに結び付いたんすよ。
まあ、その程度だったんで、確信っていえるほどのもんはなかったんすけどね」
そう言って、熊助は頭をかいた。
「そうか……」
六介は素直にうなずいた。
はたから見れば、当てずっぽうもいいところだろうが、それが的中してしまうところに、六介もまた、ある種の運命を感じた。
「こうして先生と再会できて、今は素直に嬉しいっす」
しかし、熊助はその直後、六介にとっては思いも寄らぬ言葉を口にした。「でも俺……本当は、この出雲町には来たくなかったんすよね」
これは事実である。熊助は武者修行と称して全国を放浪していたが、出雲町とその近辺だけは、意識的に避けてきたのだ。
「どういうことだ、虎之助君?」
この六介の台詞を否定するように、熊助はきっぱりとこう言った。
「その前に――俺は熊助です。古武術・仙台上杉流嫡男、上杉 熊助(うえすぎ ゆうすけ)」
「……そうだったな。済まん、熊助君」
「先生が出雲町にいることは、数年前に実家から聞きました。だから、出雲町に行ったら、どうしたって桐谷先生に出会ってしまう。
そして――先生の前に立つと、嫌でも俺が『虎之助』だということを、思い知らされてしまうっす」
「…………?」
六介は、熊助の気持ちを理解しかねた。
放浪癖といい、タギリを従えていることといい、「千手羅漢」を求めることといい、六介に言わせれば、今の熊助は、まさにあの頃の「虎之助」そのものではないか。
すると熊助は、自嘲気味にこう言った。
「先生の言いたい事は分かります。『虎之助』を振っ切ろうとしてるくせして、やってる事は『虎之助』そのものなんすから。ほんと、自分でも嫌になるっすよ」
「そもそも熊助君、なぜ『武者修行』なんぞ始めたんだ?」
この時から熊助の「虎之助」化が始まったように、六介には思えたからだ。
「……実家には、『美園』がいるっすから」
「えっ?」
しかし、ここで六介は、ある可能性にハッと気が付いた。
数年前、六介は一人の古武術研究家として、仙台の上杉宗家を訪ねている。
この時、跡取りの熊助は「武者修行中」で不在だったが、その上杉家の道場に、一人の少女がいた。
そして彼女は、六介が「桐谷五郎」だった頃の記憶に残る、ある女性の面影を映していた。
「確かに、上杉家の道場には、あの頃の美園君にそっくりの少女がいたが……まさか!?」
「ええ、美園の転生っすよ。正確には、美園の転生の転生」
熊助は、虎之助と美園の「その後」について、語り始めた。
「美園と結婚して30年目だったっけ。俺が死んで、それから2年後に、あとを追うように美園まで死んで。
で、気が付いたら、二人揃って、ネノクニのおんなじ村に転生してやんの」
「ネノクニでもか?」
「でもって、ネノクニでも当然のようにめおとになったっす。でも、俺たちが40過ぎの時に、村が悪霊軍に急襲されて、俺たち二人ともあっさり戦死。
そして、気が付いたら、またまた二人揃って、今度は仙台に転生っすよ」
「おいおい……」
冗談のような話だが、事実である。もちろん、そんなことが起こる確率は無茶苦茶に低い。はっきり言って、天文学的数字だ。
その上、どういう訳か「虎之助」も「美園」も、前世の記憶をずっと引き継いでしまっているのだ。だから、なおさらたちが悪い。
「先生も思うっすよね。ここまで来ると、もう腐れ縁なんてレベルじゃないっすよ」
ここで読者の皆さんは、「いっそ、また結婚したら?」とお思いのことと存じ奉るが、さすがに今回は、それは無理であった。
「しかも、今度ばかりはなあ……」
「ええ。さすがにねえ……」
しかし、その理由については、今はあえて触れないことにする。まあ、大体察しは付くと思うが。
「分からんでもないな。本当は最愛の人がすぐ目の前にいるのに、手が届くことは決してないと知ったら」
「そういうことっす。だから、横浜で千夏と出会った時は、凄い嬉しかったっすよ! そうか、『熊助』にはこういう『運命の人』が、ちゃんと用意されてたんだって。
それぐらい、千夏とは何か強いものを感じるっす」
熊助は本気でそう感じていた。
あと、熊助は、〈これでやっと、『美園』への想いを断ち切れる〉とも感じていたが、さすがにこれは口に出せない。
しかし、このあとの六介の台詞は、熊助にとってはまさに「爆弾」だったようだ。
「そりゃ、確かに『運命』だろうな。何しろ千夏ちゃんは、宗一郎君の末裔なんだから」
「はあっ!?」
――熊助は、マジで知らなかったらしい。
「宗一郎って……あの、海軍上がりで女ったらしの、あの宗一郎っすか!?」
……本人が聞いたら怒るぞ、熊助。
「う、うむ。まあ……その沢木宗一郎君のことだが」
って、否定しないんですか、六介さん? 「しかし、苗字が『沢木』なんだから、その時点で気付くと思うが」
「いやー、『沢木』って、よくある名字なんだなーとしか……」
おいおい。
実は熊助、横浜の涼子ちゃんが「永峰涼子」だということも知らなかったりする。
もちろん、あの永峰家の分家の娘である。和人・陽子の時代、山口の永峰宗家は二人の叔父が守っていたが、その叔父の娘が和人の養子となった愛弟子と結婚して宗家を継いでおり、涼子自身、その血筋をたどると、この夫妻に行き着く。
なお、「叔父の娘」も陽子に引けを取らない方術士だったが、涼子自身は方術士ではない(所詮は分家)。ただ、今日まで宗家に代々受け継がれてきた対魔剣術や方術のことは知っていたので、千夏への理解があったのも当然であろう。
「……もう、やめた」
いきなり、熊助がつぶやいた。
「えっ!?」
六介は驚いたが、もちろん、千夏を諦めたという意味でないことぐらい、六介にも分かっている。
「もう、前世に拘るのはやめたっす。
いくら俺が熊助だと言ったところで、俺が虎之助の転生である事実は、今更覆りようがねえっす。
過去はどうであれ、今の俺は千夏が好き。それで充分っすよ」
「……そうか」
六介も、それに同意するように深くうなずいた。
すると熊助は、六介の正面に向き直ると、あぐらから土下座のような姿勢に変え、六介の前に手を突いた。
「桐谷先生! この俺にもう一度、奥儀『千手羅漢』を教えて下さい。お願いします!」
これには、さすがの六介も困惑した。
「……君の気持ちは分かった。だから、土下座はよせ」
しかし熊助は、土下座を解くどころか、ますます深々と頭を下げる。
「お願いします!」
〈そうだった。虎之助君は、そういう男だったな〉
「……やれやれ」
そうつぶやきながら、六介は立ち上がった。そして、熊助にもそうするよう促した。
「先生」
「いいだろう。奥義をもう一度伝授してやろう」
「先生……ありがとうございます!」
「しかし、私からも君に言っておきたい事がある」
「……えっ?」
すると六介は、一旦熊助に背を向けた。
「今の君が、上杉熊助君であるように――」
そして一呼吸置いてから、振り返って、こう続けた。
「――今のわしは、塔馬六介じゃよ」
そして、物語は三日後――つまり、第8話の冒頭に戻るのであった。
と言っても、既に授業は終わり、今は放課後である。
出雲学園からの帰り道である下り坂を、一人で歩く千夏。
彼女の心の中を、昼休みのヒミコの言葉が、リフレインのように繰り返し響く。
『ただ、私としては、今一度、自らあの沼に行くことをお勧めします』
そして千夏は、未だ迷っていた。
〈事態がここまで進んでしまった以上、そうするより他にないことぐらい、私にも分かる。
でも、あの沼に一人で行くのは、怖い……〉
本当なら千夏は、ヒミコに沼への付き添いを頼むべきだったのだろう。
しかし、なぜかこの時、千夏の頭には、あいつの顔しか浮かんでこなかった。
「熊助ったら、私が困ってるって時に、一体何をしてんのよっ」
独り言をつぶやく千夏。しかし、直後に、はあっとため息をついた。「……って、あいつが知ってるわけないか」
「元気ないな。どうした、千夏?」
そんな時に、当の彼が自分の前に姿を現したのだ。千夏が何ら警戒心を抱かなかったのも、無理はあるまい。
「熊助っ!?」
その頃、出雲学園――。
広い図書室の中では、なぜか学内に残っていたカグツチが、日本神話関係の書物を読みあさっていた。
学生時代もこれぐらい勉強熱心であれば、もう少し成績も良かったのではないかと思わないでもないが、それは言いっこなしであろう。
そんな時である。
制服姿の女子が一人、何やら慌てた様子で図書室に入ってくるなり、キョロキョロと室内を見渡していた。
そして彼女――ヒミコは、カグツチの姿を見付けると、早歩きでカグツチの元に近付いてきた。
「どうした、ヒミコ」
「カグツチ、千夏さんを見かけませんでしたか?」
「いや、見なかったけど。というか、ヒミコ、千夏ちゃんと同じクラスだろ?」
「掃除当番だったものですから。終わって教室に戻ってみたら、残っていたクラスメートから、既に千夏さんは下校したと聞きました」
千夏たち二人は、問題の沼への道を、一直線に進む。
その道すがら、千夏は、昼休みにあった事を相方にかいつまんで聞かせていた。
「誘っておいて何だけど、よく付いてく気になったわね、熊助」
「当然だろ。お前に勝つ前に、お前に死なれてたまるかってんだ」
「何よ、それ」
「しかしよ、よく覚えてるな、その沼への道を」
確かに、あの時の千夏は、半ば夢遊病状態だった。
「分かるのよ、何となく。どうせ、また沼の方から誘ってんでしょ、私を」
「ふーん……」
一方、学園正門前――。
綾香に電話していたカグツチが、携帯電話の「切」キーを押した。
「どうでしたか?」
ヒミコの問いに、カグツチは首を横に振りながら、答えた。
「やっぱりだ。千夏ちゃん、まだ帰ってきてないって」
「そうですか」と、ヒミコが言った。「どうやら、千夏さんは既に沼に向かったようですね」
「そう考えた方がいいだろう。
ところでヒミコ、このことは猛君たちには?」
ヒミコは即座に答えた。
「何も伝えていません。特に剛、あと猛と明日香さんは、大会を控えた身です。彼らをこの件に巻き込むわけには参りません」
カグツチも同意する。
「それでいい。これは千夏ちゃんと――ある意味、七海ちゃんの問題だ。あと、それに直接関わった、俺たちの――」
そうカグツチが言いかけた時だった。
「――――! カグツチ、あれを」
突然、ヒミコが上空を指して言った。
二人が目にしたもの。
それは、雲をかき分けながら空を駆ける、大きな白い虎――精霊姿の白虎と。
「――七海ちゃん!?」
弓を右手に持ち、白虎にまたがってその背に掴まっている、道着姿の七海だった。
一方、七海と白虎からも、カグツチとヒミコの姿が眼下に見えた。
「あれは……先輩!」
『うむ、徐福様も一緒か。七海、降りるぞ』
「はいっ!」
白虎は七海を乗せたまま、急降下して、カグツチのそばに降り立った。
即座に人間形態に変化した白虎に、ヒミコが聞く。
「白虎、これは一体――」
しかし、白虎はそれには答えず、目の前のカグツチにこう言った。
「カグツチ、指示通り、七海を連れてきた」
この台詞に釣られるように、ヒミコと七海はカグツチに視線を向ける。
しかし、カグツチには全く心当たりがない。
「『指示通り』って、白虎、何のことだ?」
「何を言っている。千夏が危機に陥っているから、至急、七海をこちらまで寄こしてくれと、宝貝で指示したのはカグツチではないか」
続いて七海も、
「私も、綾香さんから電話で『千夏ちゃんが危ない』と連絡がありました。その直後に玄関のインターフォンが鳴ったんで、出てみたら白虎さんが」
「ちょっと待て」とカグツチ。「白虎、その、俺が宝貝で指示したというのは、いつ頃の事だ?」
すると白虎は、学園校舎の時計を見てから、言った。
「今から30分ほど前だな」
「それは変です」とヒミコ。「私がカグツチに、千夏さんの件を伝えたのは、ほんの10分前です」
「ああ。それに綾香さんも、ついさっき、俺が電話するまで、千夏ちゃんの件を知らなかった」
すると白虎は、即座に事態を理解して、こう言った。
「すると、別の誰かがカグツチと綾香を騙って、我々をここまでおびき寄せたということか」
それを聞いて、七海がカグツチに聞いた。
「それじゃ、千夏は無事なんですね?」
しかし、カグツチは首を横に振った。
「それは何とも言えない。ただ、俺たちの知らない誰かが、こうして俺たちを集めていること自体、何かが起ころうとしているのは間違いない。
七海ちゃん、あの沼の場所は、まだ覚えているか?」
すると、七海はきっぱりと、
「もちろんです。あの場所は……忘れようとしても、忘れられる場所ではありません」
それを受けて、ヒミコが3人に言った。
「急ぎましょう。今から走れば、あるいは千夏さんに追い付くかも――」
「待て」と突然、白虎がヒミコを制した。「――誰か近付いてくる」
白虎の言葉を受けて、皆が坂の下へと目を向けると、その視線の先から黒塗りのリムジンが1台、こちらに向かってきていた。
カグツチが言う。
「あれは……大斗邸のか?」
これに対して、ヒミコが答える。
「いえ。似てはいますが、形が少し違います」
「ひょっとして……」
七海のつぶやきに、他も無言でうなずいた。
大斗家以外にも、自分たちのかつての仲間で、ここまでリムジンでやって来るような人物に心当たりがあったから。
(ここで作者注。
実は1週間ほど前、カグツチたちは「その人物」と既に再会を果たしています。現時点での『カグツチ帰郷物語』公開分より時系列が先に進んでしまったため、展開がちぐはぐになっていますが、どうぞご了承下さい)
やがて、リムジンはカグツチの前で、静かに停車した。彼らが注目する中、後部座席から現れたのは、案の定――。
「七海、間に合った!?」
「やっぱり、渚先輩!」
「それじゃ、渚もか?」
カグツチが問いただすと、倉島渚はこう答えた。
「ええ。『千夏を助けて』って、七海から携帯に電話があったから、出張先の東京から文字通り飛んできたわ」
ちなみに渚は、出雲町の近くまで、急きょチャーターしたヘリで向かい、そこから待機させていたリムジンでここまでやって来たのだ。さすがは倉島財閥の次期当主。やる事がでかい。
「で、当然、七海ちゃんは――」
と、カグツチが聞くと、やはりと言うか。
「はい、全く心当たりありません」
また、ヒミコが渚に聞いた。
「それにしても、大斗さんと同様に多忙な渚さんが、よくここまで来られましたね」
当然の疑問である。これに対し、渚はこう答えた。
「それが不思議なのよ。
今日だって朝から晩まで予定が埋まってたんだけど、それが今日になって、一つ残らずキャンセルになっちゃったのよ。先方が急病やら事故やらで」
そんなこんなで、カグツチたちが校門前でもたもたしていた頃。
当の千夏たちは、既に沼の手前まで到達しておりました。
というわけで、ここからはしばらく、千夏視点で話を進めます――。
ガサッ、ゴソッ。
視界の遥か向こう側に、学校の校舎らしき建物が見える。
その学校の裏山らしき、林の中へ入り込んだ私は、熊助を連れて、草やぶだらけの道を進む。道といっても、当然ながら舗装などされていない、まるで獣道を思わせるような、土がむき出しになった細い道である。
「千夏、まだなのか、その沼ってのは?」
私のすぐ後ろに付いて歩いている熊助が聞いてきたので、私は答えた。
「もう少しよ……多分」
「多分って何だよ、多分って」
「しょうがないでしょ。私だって、詳しくは知らないんだし」
「はあっ!?」
熊助は呆気に取られているようだが、私には、この道で間違いないという自信があった。
なぜなら、先ほどからずっと、私の心の中に直接呼びかけてくる“声”が、どんどん強くなってきているから。
“そうよ。このまま、まっすぐ来て”
はいはい。ちゃんと行きますから、少しは静かにしてなさいって。
そして、裏山に入って数分後、突然、視界がぱあっと開いた。どうやら、林を抜けたようだ。
「へえ……」
熊助が、目の前の光景を見て、どうとでも取れる声を上げた。
これから夕方だというのに、周囲を樹木に囲まれたそこは、既に日が落ちたかのように暗い。
そして、雑草だらけの地面の真ん中、私たちがいる場所から10メートルほど先に――貯水池のような小さい沼地が見えた。
熊助は、私の右側に寄り添って立ったまま、目の前にある沼をじっと見つめていた。
「へえ……」
「熊助、さっきから『へえ』しか言ってないけど」
「いや、沼っていうから、てっきり濁った泥水みたいなのを想像してた。
でも、案外綺麗だし、これだったら普通に泳げそうだな」
「まだ水泳には早いわよ」
と言いつつも、私は熊助の言葉に同意して、「でも、綺麗なのは確かね」
私がこの沼の近くまで来たのは、これが2度目になる。
でも、前に来た時は真夜中だったから、水の様子なんて分からなかった。
それに、何より私自身、そんなことに気が付くような精神状態ではなかった。
「……千夏?」
この沼の底から、私の心に直接呼びかけてくる、あの声。
“そうよ。さあ、いらっしゃい”
そう。この声に導かれるまま、あの日も私は、この沼のそばまで――。
「うっ……!」
突然、悪寒が私を襲った。そして、半ば反射的に、私は後ろを振り向いた。
見ると、そこには。
「おっと」
いつの間にか熊助が、私の背後に立ち、両手を前に突き出していた。
「何してんのよ」
そう言って、私は熊助をにらみ付けた。
すると、熊助は少しも表情を崩さず、こんな言葉を発した。
「いや、千夏が沼に飛び込もうとしてるから、手伝ってやろうかなーと思って」
私は、熊助の台詞を理解しかねた。
「はあっ? 何言って…………!」
そして、私は前へ向き直り――声を失った。
一体、私の身に何が起こったのか。
それとも、あの沼の声に導かれるまま、また無意識のうちに、ここまで歩いてきてしまったとでもいうのだろうか。
とにかく、事実として。
今の私は、沼のすぐそば、それも、あと1歩踏み出せば、そのまま沼の中に落ちる位置に、立っていた。
――と同時に、さっきの熊助の行動の意味を、私はやっと理解できた。
理解できて……私は、熊助に裏切られたと思った。
「……あんたがそういう男だとは思わなかったわ」
私は熊助に背を向けたまま、熊助をなじる。
「おい、何を言って――」
「何が『勝つ前に死なれてたまるか』よ。あんた、さっき私を殺そうとしたじゃない!」
これに対し、熊助は抜け抜けと、こう言った。
「千夏……ひょっとしてお前、カナヅチか?」
これには、私も思わず回れ右して、熊助を怒鳴った。
「そんなわけないでしょ!」
体育でやるんだから、水泳ぐらい出来るわよ。人並みには。
「だったら、問題ねえじゃねえか」
「だから、そういう問題じゃ――」
すると熊助は、頭をかきながら、
「でもな、実際、沼に飛び込まなきゃ、事態は先に進まないだろ?」
「えっ……?」
「だからさ……もう一度沼に行けって、昼間、ヒミコに言われたんだろ?
つまりそれって、イチかバチか、思い切って沼に飛び込めって意味じゃないのか」
「でも……」
だからって、ハイそうですかとあっさり身投げできるほど、私は命知らずじゃない。
熊助には、そんな私の態度が優柔不断に見えたのだろうか。
いきなり私の体を、その両手で抱き締めたのだ。
「…………」
そして、突然の事に何も言えなくなった私の耳元に、熊助はささやいた。
「心配するな。俺も一緒に、沼に飛び込んでやるからよ」
「……えーと……??」
「だーかーらー、このまま俺も一緒に飛び込んでやるから、安心しろって言ってんの」
つまり、沼の中で私に何かあったら、即、熊助が助けてくれるってこと?
……あ、でも。
「そういう熊助こそ、カナヅチじゃないでしょうね」
そこまで言っておいて、沼に飛び込んだ途端に、熊助が「ただの重り」と化したら、それこそシャレにならないじゃない。
「んなわけないだろ。だから、大丈夫だって」
――そうよね。
思えば、たった1度とはいえ、熊助とは互いに体を許し合った仲。
その熊助を、今更信用できないでどうするってのよ。
私は、心に決めた。
「……うん、任せる」
私は、全てを熊助に託すように、熊助の大きな体を抱き返した。
「ああ、任せろ」
そして、熊助もまた、私を更に抱き寄せるように、両腕に力を込めた。
「お前とはずっと一緒だ……あの世までな」
えっ……?
今……熊助は何て……?
そして、今頃になって気付いてしまった。
目の前の熊助が、愛用の長棍を背負っていないことに。
つまり、私の目の前にいる、この男は――。
「あんた……誰?」
想像もしていなかった事態を前にして、私の体が小刻みに震える。
私の疑問に答える代わりに、熊助は――否、ずっと熊助だと思い込んでいたこの男は、冷たく言い放った。
「何勘違いしてたか知らねえが、俺は自分が熊助だなんて、一言も言っちゃいねえぜ」
……しまった!
「大体、本物の熊助は、今、お前に勝とうと技を磨くのに必死なんだろ? お前が、こんな目に遭ってることも知らずによ。
そんな奴が、あんな出来すぎたタイミングで、お前の目の前に現れると思うか?」
……駄目だ。
この男から離れようと、私は懸命に体をよじるが、やはり力の差は歴然としていた。男は、私の体に回した両腕を、決して緩めようとはしない。
「なーに。どうせすぐ、本物の熊助も、お前のあとを追うことになるんだからよ」
〈熊助……助けて!〉
それは、声にならない叫び。
「……そらよっと!」
そして、熊助に瓜二つな、この謎の男は。
混乱する私を抱き締めたまま、目の前の沼へと、身を躍らせた。
〈熊助……!!〉