コツ、コツ、コツ、コツ……。
ここは、とある精神病院の入院病棟。
その館内の薄暗い廊下を、細身の青年が一人、静かに歩く。
青年の名は、月島拓也。
目的は、この病院に入院している一人の女性に会うため。
それも、今日で3日目になる。
道中で、幾人かの医師や看護婦と すれ違う。
本来、一般人がここの入院患者と面会することは、ほとんど出来ないはずだが、この病院の職員の誰もが、拓也の姿を見かけても、それを気にかけることはない。
一昨日、拓也が最初にこの病院を訪れた時、院内の全ての人間にかけた電波――自分を見かけても、それが当然であるかのように認識する――の効果が、まだ続いているためだ。
やがて、拓也は目的の病院の前に たどり着く。
拓也はドアを軽くノックしてから、静かにノブを回す。そして室内を一瞬のぞき見て中の様子を確認してから、部屋の中へと入って行く。
会いに来た相手――太田香奈子は、今日もベッドの上で眠っている。
いや、眠っているという表現は正確ではない。
今の彼女には、意識というものが全く感じられない。それこそ屍のように、ベッドに横たわっているだけだから。
拓也はベッドの傍らに置かれた椅子に座ると、いつものように、香奈子の頭部に手をかざす。
そして――香奈子の心の奥深くへ、自らの精神を沈めていった。
*
拓也は――いや、拓也の“精神”が、香奈子の精神世界の中に立つ。
そこは見渡す限り、ただ真っ黒な闇だった。
その闇の世界に、都会の夜空に わずかに光る星々のように、かすかに光る かけらが所々に散らばっている。
かつて、拓也自身が粉々に砕いた、香奈子の心のかけらだ。
拓也は、この2日間で かき集めた かけらの ほんの一部を足元に残し、今日もまた、かけらを一つ一つ拾い集めるために、闇の中を歩き続ける。
〈太田さんの心は、医学によっては決して治らない。
壊れてしまった太田さんの心を元に戻すには、バラバラになった心のかけらを全て拾い集めた上で、元通りに修復するより他にない〉
――それが、拓也の確信だった。
瑠璃子に続き、拓也があの悪夢の記憶を思い出した時、拓也は自分が犯した罪の大きさに押し潰れそうになった。
この時、瑠璃子が拓也を慰めていなければ、拓也は再び、狂気の扉を開けてしまっていたかも知れない。
落ち着きを取り戻した拓也がまず考えた事は、贖罪(しょくざい)――罪を償うということだった。
とりわけ、自分への愛と信頼に対して、心の破壊という凶行を返してしまった香奈子への罪の重荷が、拓也を大いに苦しめた。
そんな拓也が、香奈子を助けるという行動に出たのは、ある意味 自然なことだった。
もちろん、仮に助けられたところで、それによっては香奈子への罪は到底償い切れるものではない。
治したところで、それで香奈子に赦してもらえるという保証は何もない。
それどころか、回復した香奈子が、それまでの恨みから拓也を殺すというケースさえ あり得る。
しかし、拓也はそれらを充分承知の上で、それでも そうせずには おれなかった。
*
作業を始めてから、1時間が過ぎた。
拓也の左手には、この日集めた香奈子のかけらが盛られている。
この3日間でだいぶ集まったが、それでも やっと全体の半分弱といったところだろうか。
元の地点に戻り、拓也は手にした かけらを前日までの山に加えると、改めて闇の中を見渡した。
主に遠くの方に、拾い切れていない かけらが そこかしこでキラリと鈍く光っている。
拓也は、本心から言えば まだまだ作業を続けたかったが、しかし、これ以上ここに居続けては、自分の精神が持たなかった。
他人の精神世界に入るということは、それぐらい自己の精神に多大な負担をかけるということなのだ。
拓也はやむなく今日の作業を終え、3日間で集めた かけらの山に一瞥すると、香奈子の心の中から静かに立ち去った。
*
自分の体に戻った拓也は、自分の前で、依然としてベッドで“眠る”香奈子に目をやった。
未だ自ら爪で引っかいた傷痕が生々しかったが、拓也は、そんな彼女の表情に見て、何か不思議な感情に囚われた。
それは一言で言えば、彼女を助けたい、彼女を守りたいという愛情の心だろう。
しかし、拓也はそのことに、大きな違和感を覚えていた。
なぜなら、それはいつも瑠璃子に対して抱く愛情とは、明らかに異なるものだったからだ。
では、この感情は一体何なのか。
この時の拓也は、瑠璃子への愛と、香奈子への愛の違いを理解することが出来ず、戸惑うばかりだった。
結局拓也は、そんな不思議な感慨を抱いたまま、香奈子に一礼した後、病室のドアを静かに開け、廊下へと出た。
*
コツコツと静かな足音を立て、廊下を歩く拓也。すれ違う病院の職員の誰もが、彼に何の関心も示さない。
やがて何事もなく出口を抜け、拓也は今日も病院を後にした。
完全に元に戻った拓也と香奈子が心から結ばれる日から、1カ月ほど前の出来事――。
――完――
えー……(苦笑)。
本当は、香奈子が回復するまでを書こうと思ったのですが、どうも書き出すと無茶苦茶 長くなりそうな気配だったので、結局は冒頭部分だけになってしまいました。
この続きが書かれるかどうかは、今のところ未定……。